SMな愛情の形…責められて感じること | “誰か助けて…” ん? いいよ…S男でよければ…

SMな愛情の形…責められて感じること

スパンキングすると手がと~っても痛い。
した事ある人なら判るだろうけど思いっきり尻をひっぱ叩くと、
2~3発叩いただけで手がジンジン痛む。

それを5~6発もすると手の平が真っ赤になって
そりゃもう手が痛くてスゴイんだ。
尻タブって意外に鈍感だから叩かれてる方は確かに痛いけど叩く方ほど
思った程は痛くない。

反対に叩く方はすごいエネルギーと労力が必要だし
手の平が痛くて萎えちゃうくらいで、そんなの好きじゃないと出来ない。

例えば、女を叩く(責める)という事が好きなのか
あるいはその女が好きなのか
そのどっちかじゃ無いと出来ん。(私は“どっちも好き”だが…それがナニか?)


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“叱る”という事もそれに少し似てる。
相手が“好き”か“大事”じゃないと出来ん。
すごいエネルギーや労力が必要だからだ。
何かの責務にある時はその責任が叱るエネルギーを与えてくれる。 
けれど責務の絡まない時には叱っている(責める)事で
相手にイヤな思いをさせている(=相手を傷つけてる)そんな自分を思い知るワケで、
その事で自分もどこか痛い(悲しい)もんなんだ。

それは単に“怒る”のとは質が違う。
怒る事は誰にでも出来るが叱る事はどうだか…

どうでもいい相手には怒る事はあっても叱る気にはならない。 
何より面倒くさいし、その労力さえもったいなく感じる…
だからこそ人は“叱られる”事にも愛情を感じる。


逆に“ホメる”のは誰でもわりと簡単に出来る。
それは叱る事と違ってホメる事は自分もイヤな思いはしないからだ。
でもお世辞や嘘やテキトーに言ってる事もあって本心からじゃない事も多い。
だからか、叱られるより…ホメられる事は心からの愛情を感じにくい。

それでなのか人は全く叱られないでいると
ただフツーにホメられていても何か足りなくて
自分はあまり愛されてないんじゃないかと感じる事がある。
更に進めば“自分には存在価値がないのかな…”とも思ってしまう。
もし、叱られもせず褒められもしなかったとしたら…
なお更強くそう感じてしまう。


私がそんな事を思うタイプだからか、多くの人はM女の事を
ただ“責められて喜ぶ変態女だ”なんて思ってたりするけれど
今までM女性に接してきても、
私は何も特別変わっている人種だなんてちっとも思えなかった。

ただいつの間にかホントの自分の存在価値が判らなくなってしまったのか
見失ってしまったのか…
そんな人がただ当たり前に切実に“ホントの自分の存在価値”を求めているんじゃないかと、
誰しもが普通に望む事を切に望んでいる、それだけなんじゃないかと…
そんな風に思えるからだ。


人は好きな相手を抱きしめる。
それがとっても好きな相手なら“ぎゅっ!”っと強く抱きしめる。
とってもとってもとっても好きな相手だったら“ギュィウウウウ~~~~!!”と
相手の背骨が折れてしまうかと思えるほど
相手が“痛い”と思うくらい強く強く抱きしめる。
その“好きな相手”を言い換えれば…
自分にとって“必要な人”の事だ。


ただそうなりたい…それだけ…


肩書きも忘れ…社会や家庭での立場・役割といった表面的なものは全て取り払って
本来あるがままの自分に戻り、そんな自分が“痛い”と思えるほど愛されたい…
“痛い”と思えるほど愛され、必要とされ、自分という存在の価値を感じたい…


叱られても、痛いと思うほど責められても、恥ずかしめられても…
そうされる事で自分の存在の価値を感じ…
自分の存在が確かなものである事、それが間違いじゃない事を感じたい…


ただ真摯に切実にそして正直に、ただその事だけを思っているだけだとしたら…
それでも人はM女をただの変態だと
“普通の人とは違う何か変わった嗜好の人間だ”と、そう思うのでしょうか…


中にはたとえそこに“愛”というものがなくても、
“愛”までは得られなくても…
せめて心か体かが“痛い”と感じる程の“実感”をもって
自分の存在の価値を感じたい…
そう思える人さえもいる…


SMってのには痛いにも程があるトンデモないものもあったり
汚いのもあったり縛りつけてその美しさを感じ入るようなフェチ的なモノもあり、
行為自体にもそれを嗜好する人も千差万別で色んなものが存在しているから
一概には言い切れない事だけれど…


でも、少しでも私のこの話を理解する事ができたのなら…貴方も…

人の心が必ず持つ“闇”というものから抜け出す“扉”が少し…


開いたのかもしれない。