Happy Halloween☆
(そもそもハロウィンはハッピーで良いのか、、、?)
明日から11月に入りますが、やっと衣替えが終わりました。
衣替えついでに、またもや大量の服とクローゼットに擬態した押し入れもどきの中も片づけました。
いつのセッションなのかもう覚えていないのですが、コピアベートさんのセッションに申し込んだときに、見えない場所の片づけをするようにと言われていたのですが、いつものように面倒臭いと思ってしまって早数か月。(もしかすると1年かも、、、汗)
今になって目をそむけていた場所にやっと手をつけられました!
私は押し入れ収納に使う2段の引き出しがある箪笥を2つ持っているのですが、そのうちの3杯がなんとカラ!
これまでは全部の引き出しにギュウギュウ詰めに服が入っていたのに、いつの間にかカラになっていました。
服に関しては、こまめに処分していたので衣替えをするまで全く気がついていませんでした。
となれば、不要になったこの箪笥を捨てるだけなのですが、ふと思い出したのが天袋に押し込んでいた着物と細々とした小物たち。
着物は小物も多いので、いくら厳選して実家から持ってきたとは言え、収納ケース2つ分もあります。
なのでこれらを空いた引き出しにしまうことにし、天袋をカラにしました。
そもそも天袋にしまい込んでいると、出し入れが億劫になるので、使おうとも思いません。
それ以前に、これから先、着物を着る機会があるかどうかもわからないし、最早、自分で着付けることができなくなっているような気もするのですが、それでも着物を処分するのは気が引けます。
なので一旦、場所を与えて考えることにし、着物に関してはペンディング。
そして夏物と冬物を片づけながらこんなことを思いました。
この服を着たまま死んでも後悔しないか? と。
年齢的な体形の変化に加え、服そのものの劣化やデザインの流行りもあります。
高かったからとか、気に入っていたからとか、いろいろと処分できない理由はありますが、そこはグッとこらえて見直しました。
そしてやっぱり処分することに対しての罪悪感も感じたりもしました、、、。
でもね、こうも思ったんです。
細胞レベルでは、10年前の私と今の私では全く違う人間になっている。
だから「変わらない」ことのほうが不自然で、「変わる」ことのほうが自然なこと。
なのでこの服を買ったときの私は「この服が一番」「これが良い」と思って買っていたかもしれないけれど、その時の私と今の私は違うのだから、着なくなっているのも当然だと。
とは言え、この服が良いと思って買った服なんてやっぱり少なくて、大部分の服は「なんとなく」とか「あったら便利かも」とか、「とりあえずこれでいっか」のものばかりです。
そこで、もう一度思ったのが、もし今日、巨大隕石が落ちてきて死んでしまったら、あぁ、あっちのお気に入りの服を着ておけば良かった、、、なんて思ったりするぐらいなら、厳選したお気に入りの服ばかりだけを着ておきたいなぁと。
(巨大隕石が落ちてくるかどうかはおいておいてください。事件に巻き込まれたり事故にあうことはないと頑なに信じているので、突然死ぬなら隕石の衝突かなぁぐらいのノリです。)
だってよく考えてもみてください。
死に装束が、サイズが合ってないとか、小さな小さな毛玉ができているけど、まぁいっか、でとりあえず選んだものだとしたら、なんだか死んでも死にきれないと思いませんか?
死にきれなくて地縛霊となって出てきた幽霊の服が、サイズが合ってなくてちんちくりんだったり、毛玉がついてたら、私は幽霊自体よりももっとマシな服はなかったのかとそこが気になって仕方がありません。
むしろ死んだ理由よりも、どうしてその服を選んで着ていたのか、そっちの理由のほうが知りたいです。
と言うことで、またもや大量の服を処分した私なのですが、処分しすぎて今の時期に着る服がありません(汗
なので慌てて服を買ったのですが、お気に入りになるようにボタンを付け替えたりしようと思っています。
、、、ここからは、本当にどうでもいいことなのですが、ふと細胞レベルの私は10年前の私とは違うと言うことは、私は私なの? と、テセウスの船ばりに哲学的なことを考えてしまいました。
ですが、燃えてしまった金閣寺や首里城にしても再建(?)復元(?)されたもの(首里城はまたこれからですが)をありがたく見学したり拝観したりするので、深く考えないことにしました。
それに、建物と人は違いますしね。
と、テセウスの私にしろHappy Halloweenにしろ地縛霊の服装にしろ、こんな益体もないことに思考のリソースを使うぐらいに暇で平和な日常を送っているんだろうなぁ、、、ということですし。
いつもサポートしてくださるガイドさんと高次元の存在に感謝します!