昨日のブログでは、鬱々とした毎日を過ごしている、と書きましたが、

気づきを得たことによって、少しだけ上向きの気持ちへと変化してきました。

そして更なる気づきも。

 

どんなにエネルギーワークをして、エネルギーを動かそうとやっていても、

どうしても動かない現実が目の前に現れるとき、

内側の世界の私は絶対に変わりたくないと思い続けている。

 

これは以前にも紹介しましたが、けいこヴァールハイトさんのブログにも書かれてありました。

 

 

 

絶望的な状況に置かれて途方に暮れていたとしても、

遅々として進まない現実に打ちのめされていたとしても、

それでもそんな状況からでも何かしらの気づきがあります。

 

そこで思いました。

 

気づきがある、ということは、エネルギーが変化したからこそ気づくのであって、

変化していなければ気づくこともありません。

 

と言うことは、毎日、何かしらの気づきがあって、こうしてブログに書いているということは、

自分で思っている以上に、変化がもたらされているのではないかと。

 

変化がもたらされている、という言い方は少し変かもしれません。

 

変化しようとし続ける私がいて、その私を受け入れられるようになってきている、と

言い換えたほうが適切なのかもしれないです。

 

 

どんなにエネルギーワークをしても、全然、現実は変わらないし、

私は相変わらず一人だし、なんなら職もお金もないんですけど?

と、ぶっちゃけて言うと、ここ最近の私は不貞腐れて拗ねてもいましたが、

それでも何かしらの気づきはある。

 

もしかしたら私は、変化した自分をきちんと見ていなかったのかもしれない、

と、そんなふうに思いました。

 

 

劇的に、まるでエスカレーターとかエレベーターに乗っているような急激な変化、

そんなものが私の身の上に起こるのかも! なんてことを、夢見がちな私は

(内側の世界の私を差し置いて)勝手に思い込んでいたのかもしれません。

 

 

内側の世界の私は、何一つ変わりたくないし、何もしたくないし、

輪廻転生を繰り返すだけの、何も成さない人生をただぼんやりとやり過ごしていたい。

 

そんな内側の私に、変わろう、とか、変わらざるを得ないんだよ、と、

どんなに説いたとしてもそうそう重い腰を持ち上げるとも思えません。

だったらこの現実世界が変わらないのは、当然です。

 

とは言え、それでも起きる毎日の気づき。

 

薄くて硬い殻が、一枚づつ剥がされていくときに気づきがあるのであれば、

間違いなく内側の私も変化しているはずです。

 

ここでも、あぁ、私は私をないがしろにしていたんだなぁ、と気づきました。

 

遅々として進まないように見える現実世界でも、内側の世界ではちゃんと変化している。

内側の世界で、やさぐれて不貞腐れて拗ねている私でも、それでも変化しようとしている。

 

そんなふうに思ったら、なんだか、要らないものが

ポロポロと剥がれ落ちていくような、そんな感覚になりました。

 

気づきの大小とか、そんなのは関係がなくて、気づきがあるのかないのか。

気づきがあることで、確実に変化はしている、と、確信めいた気持ちになりました。

 

 

いつもサポートしてくださるガイドさんと高次元の存在に感謝します。