書店のレイアウト。






視界を確保し、奥行きと開放感を維持。




目線の先にも近くにも、華やかな表紙が見えるように陳列。







高く立ちはだかるように設置された棚は、本の存在感を醸し出す。





広くゆったりした通路が、心にゆとりを与える。




滞在時間を長くし、本を選ぶ雰囲気を作り出す。










今年度、市内の二つの小学校の支柱が新しくなった。



市の担当者は、自分が教えた軽くて持ちやすいものを申請したくれたらしいが、通らなかったらしい。



新品だが、もの凄く重い支柱が設置されていた。



新設校の支柱は片手で持てる程の軽さだが、買い替えとなるとそうもいかないないようだ。




来年度も2、3校で買い替えてくれるようなので、それはそれで良かったと思う。














プロ野球のキャンプは開放的である。




ファンの見ている前で練習するのは励みになる反面、やりにくい面もあるだろう。他球団にも筒抜けだ。




裏を返せば、それだけファンと密接な関係を築けるスポーツでもある。




うちの息子は小学3年生で野球を始めた。




その前から、校庭での練習が道路からよく見え、監督の声もよく聞こえた。




その声とやり方は、はっきり言って昭和のそれだった。




だがあえて入団を決めた。それで良いと思ったからだ。




入団後も予想通りの指導で、子供には良い刺激になっていたようだ。




最終学年ではピッチャーを務め、要求も細かく大変だったが、なんとかやり遂げた。




その監督とは縁が続き、今でも社会教育分野で連携し、毎月顔を合わせている。




息子も同期の数人と共に、その監督と年に一度飲んでいる。




そんな代は他にはないらしい。




小学校時代の良き思い出として、心のどこかでつながっているのだろう。












ある選手が、体育の持久走で学年1位になったという。




陸上部をさしおいてのトップだったらしい。




スポーツクラブなので、専門競技以外にも、学校で何か一つ秀でたもの、自慢できるものができたら、それは指導者冥利につきるというもの。




嬉しい報告だった。












新聞社と出版社の共通点として、「縦書き」がある。




両者とも「縦書きの文化を継承している媒体」とも言える。




だが、縦書きの文書にお目にかかる機会は減っている。




昨年、ウチの小学生チームの選手達に、自宅で新聞をとっている人はいますかと聞いたことがある。




すると、その場にいた25人の選手中、手を挙げたのは2人だった。




未明には新聞配達のバイクの音が聞こえるが、一軒止まった後、距離を走ってまた一軒というように運んでいる。




新聞回収日になると家の前に古新聞を束ねて置くが、その軒数は少ない。




きょうび公的文書も横書きが多い。




縦書きで英字やURLを表記するのは難しい。




それでもウチが新聞をやめることはないだろうし、今までやめることが話題になったこともない。




信頼性、そしてネットのように「読みたい記事だけ読んだり、サイト運営者のセグメントによって誘導されたりしないから」である。




極端な思想や、一点突破型的な考えを有する人が増えると、物事の本質を見失った結末に達する危険がある。




それがネットによるものだとは結論づけられない。




だが、「個」への働きかけは、ネットなら可能だ。




有料で配達という手間をかけての情報と、無料のもの。




保存されるものと、削除可能なもの。




情報の入手先が問われる時代になっている。