ELLE2023年8月号の町屋良平さんとのインタビューを読んだ。

相変わらず成長への渇望を感じさせるものだった。

自信と不安を併せ持ち、揺れ動く青年の心。

まるで、普通の青年のように。

どんなに高みに上がっても、みずみずしい感性のままである。

 

町屋良平さんの文章は前に一度読んで、好感を持っていた。

 

 

今回、町屋良平さんの本を読んでみたくなり『しき』という本を図書館で借りて読んだ。この本は、ひらがなが多く使われていて、どういうときに漢字でどういうときにひらがななのか、わからないままに読み終えた。

「しき」だって、今パソコンで漢字変換しようと思うとすぐに7つくらい選択肢が出て来る。特にそれらを包含するつもりではないようだが。

 

ともあれ、その中ではっとする文章があった。以下引用する。

 

ほんとうにつたえたいことをつたえたいとき、知っていることばの範疇では、表現できない。それどころか、どれだけ言語表現がうまくなっても、あたらしい認識といっしょにことばをみつけていかないと、この感覚はうまくつたえられない。

町屋良平『しき』p.19  2018年7月初版 河出書房新社

 

これは、16歳の少年が自分の頭の中に生まれた感覚を伝えられないもどかしさについて書いている部分である。頭の中に自分がこう踊りたいというイメージが明確にあるのにそれを自分が身体でそのまま表現出来ないのは、自分が変(力不足)なのであって、頭の中が理想に過ぎるというわけではない、ということを伝えたいのだが、どう伝えたらいいかわからない、というシーン。

 

もう一度『ELLE』の羽生さんのインタビューを読み直す。

 

技術がないとイメージ通りに動けないですし、たとえば何かを書こうとしたときに持っている言葉の量が少なかったら絶対に書けないじゃないですか。それと一緒で、表現への渇望があったときに、それを表す言葉みたいなものが振りの中に存在しなかったら一生できない。そういう意味で、感情表現という言葉をどんどん増やさなければならない。

 

なんという一致。

 

「技術がないと表現できない」ということは、以前から(私の中では2018年平昌オリンピック優勝後の記者クラブでの記者会見以来)羽生さんはよく言っていると思う(確か「技術と表現とどちらが大事か」などという阿呆な質問をした記者がいたように思う)ので、この言葉を最初に『ELLE』で読んだ時は、羽生さんの持論だよな、と思い、さらに、作家さん向けに伝えるために表現を工夫したな、とニヤリとしたのだった。

 

でも、『しき』のp.19を読んで、羽生さんは『しき』を読んでそれを踏まえての回答だったのか? それとも2人の思考が、同じ表現を生んだのか? などと考えてしまった。

 

いずれにしても、町屋良平さんは、「我が意を得たり」と思ったのではなかろうか、などと思ったのであった。