今日は終戦記念日ですね。

この日がくると、いつも思うのは、戦争経験者である

母が、息子に戦争の話をしておいてくれるとありがたい

のになあ ということなのですが。

終戦のときに9歳だった母は、空襲のときに入った

防空壕の扉の隙間から見えた、ダダダダダッという

機銃掃射の様子が忘れられない と言っていました。

息子にとって、目の前に生きている、自分の祖母が

そういう目に遭ったという話を聞くことが追経験に

なれば と思うのですが。



一方で、私が子どもの頃に聞かされた話は他にもあって、

両親が変な言い合いをしているのを聞いたこと。

怒っていたのはもっぱら父でしたけれど。

「俺は戦争中は、剥いたリンゴの皮を軒先につるして

 乾かしたものをおやつにしていたんだぞ!」

「銀シャリばかり食いやがって!」

食い物の恨みは怖いです(笑)

母は祖母の実家が農家だったので、終戦の半年ぐらい前に

そちらに疎開していて、食うに困らなかったのです。

(疎開前は困っていたんじゃないかなぁ と思うんですが。)



とはいえ、父も当時は母子家庭で、当時給食があった

とか?で、学校であまったパンをもらってきて

おふくろに食べさせた と言っていた記憶があります。

(なんか父の記憶違いじゃないかなと思うのですが。)

日常の食生活すらままならない状態だったようで。

ま、銀シャリばかり食べていたのは母のせいではなく(笑)

田舎には銀シャリしかなかったですしね。

また、疎開という環境で寂しい思いはしていたのですから。


これが私の「戦争」です。


更に、祖母から聞いた話はもっと生々しかったです。

当時、ちょっと離れたところまで働きに行っていた祖母。

たぶん、横浜の大空襲後の話だと思うのですが、

ある駅の前を通ると死体の山があって、リンが立って

いたということ。ゆらゆらとした光景を想像するだけで

当時のすごさを感じられます。

また、職場へ行くまでの道すがら、死体をまたぎながら

たどり着いたという話、などなど。

若かった私は、「おばあちゃんってすごいなぁ」と

思ったものです。明治女、強し!です。

あ、こう思ったから息子に母の話を聞いて欲しい

のかもしれませんね。



今日、テレビで、「いつまで戦後の話をするんだよ」

という若者の声もあるとか と言っていました。

いろんな意味で、本当にいろんな意味で大きな戦争

だったのだと、覚えていくことが重要だと思います。

戦後70年と、キリのよい時間での話をしていますが、

そうではなく、「先の大戦」で日本が受けたものの

意義を常に学んでいくべき と思っているのです。