イザヤ53章は、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と言っています。
イエス様の背中が鞭打たれた時、その打ち傷から血が流されました。
その血は、私達が病、患いから癒されるために流された代価でした。
私達の癒しを買われたのです。
私達が天からよどむことなく流れてくる、神のいやしを受けることができるために。
ある話しがあります。
昔、テキサスだったと思いますが、田舎の学校に通う少年がいました。
彼の家庭環境は劣悪でした。
父親は大酒飲みで、母親もあまり良くありませんでした。
それなので彼は、何度も何度も殴られてきました。
ある日、学校に行ったとき、彼は昼食を買うお金も、弁当も持っておらず、お腹を空かせていました。
彼は痩せこけていました。
ふと見ると、がき大将の弁当が放置されていたのです。
それなので彼はその弁当を取って食べてしまいました。
しばらくして、がき大将は自分のお弁当が盗まれた事に気がつきました。
この学校の先生は、非常に厳しいルールを設けていました。
というのも、前任の先生達は全員、このがき大将によって追い出されていたからです。
このがき大将は、非常に扱いづらい生徒だったのです。
先生は独裁者のようにやって来て言いました。
「このクラスのルールを破る者は誰でも、物差しで叩きます。」
これは生徒を叩くことが許されていた時代の話しです。
先生は、生徒たちを一列に並べて、誰が弁当を取ったのか調べ始めました。
そして、あの小さな瘦せ細った少年、腹を空かせた少年が犯人だという事が分かりました。
彼は問題児ではありませんでしたが、彼が弁当を盗んだことが分かったので、生徒達が見ている手前、彼女はクラスの厳格なルールを実行する必要がありました。
そうしなければ、生徒達になめられるからです。
そこで少年のシャツを脱がしました。
脱がすと、すでに彼の体は殴られた痕や、擦り傷、打ち傷だらけだったのです。
彼女は思いました。
「私にはこの子を打つ事はできない。
でも生徒達に踏みにじられないためには、やるしかない。」
そして物差しで、この少年の背中を打とうとした時、がき大将が「やめてください!」と言いました。
彼は、少年に弁当を盗まれたんですから、怒って当然でした。
もし罰を受けるべき者がいたとしたら、あの少年でした。
しかし、彼は先生を止めて、「僕が彼の代わりに罰を受けます。彼にこんな目に遭わせるなんてできないです。
彼はもうすでに十分に打たれています。もしかしたら、今晩、家に帰ったら、また殴られるかもしれない。僕が代わります。」と言いました。
「でも、あなたの弁当が盗まれたのよ」
「分かっています!でも僕が代わりに罰を受けます。彼にはこんな目に遭わせられないから」
イエス様が私達のためにしてくださったのは、まさにこれだったのです。(もちろんイエス様のは、ガキ大将みたいに扱いづらい方ではありませんが。)
私達こそ罰を、神の御怒りを受けるべき者達でした。
しかしキリストは私達の身代わりとなるために来られ、背中を鞭打たれました。
それによって、私達が病から解放された人生を歩むことができるためです。
私達が罪の定めと過去の罪悪感から自由になるために、イエス様の手は釘で刺し通されました。
イエス様が十字架に至る途上でなされた事には全て理由があるのです。
イエス様の背中がむち打たれたのは、私達の病、患い、病気、痛みを背負うためです。
罪が人類にもたらした刑罰をその身に背負うためにです。
罪がもたらしたものの中には病があります。
人々が「それは癒しのためではないですよ」と言う時、キリストが十字架でなしてくださった事の価値を下げているのです。
それどころか、イエス・キリストの十字架の贖いの御業を中傷しているのです。
「ただの癒しだよ」というような劣ったものではありません。
癒しには大きな意味があります。
イエス様は、十字架に直行されませんでした。
もし罪を赦すことだけが目的であったのなら、釘で刺し通されるだけでよかったのです。
イエス様は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私達の咎のために砕かれました。
それならなぜ、イエス様は背中にむちを打たれたのでしょうか?
「彼の打ち傷によって、あなたがたはいやされた」だからです。
イエス様の血潮の中には、あなたを病から癒す力があります。
続く




