「学校以外の居場所」と言う言葉をよく聞くようになった。フリースクールとか、NPOなんとかのおうちとか、不登校の子の居場所作りが全国で行われている。

昨年我が子が一時不登校になりかけて、私もそれを良しとして担任から遠ざけ、学校に背を向けていた。今の先生になってからは毎日登校できているけれどまたいつどうなるか分からない。なので身近な存在として感じられる。中学や高校も行けるか分からないので、通信や不登校専門の学校(不登校の子の学校ってとても不思議な言葉だけど凝視)もあることは情報として持っている。

そんな中私が思うこと。

どうして基本的スタンスとして 学校vs「居場所」なのだろう?なぜ対立軸に置くのだろう?

学校「なんか」行かなくていい、無理して行く場所じゃない、フリースクールや他の居場所があればいい、って言う広告も多いけど、どうして学校を敵視するのだろう?

確かに不登校にはさまざまなタイプがある。

いじめや担任など外的原因、エネルギー不足な内的要因、もともとの気質で集団行動への不適応等。

ならばこそ「学校を完全に辞めたい子」と「ちょっとは行きたい子」「行けるようになりたいなと思ってる子」と対応は異なるべきではないか?

例えば「居場所」は学校と連携をとり、「◯曜日は学校で図工があるって。こんなことやってるみたいだけどどうしたい?」と聞いて「行きたい」といえばその日は登校、給食の献立を見て「食べたい」と言えばその時間登校する、みたいな自由な選択が出来ないものなのかなと。

テストを受けたいと言えば学校からテストをもらい、「居場所」で受けたっていい。「居場所」で学校の授業をオンラインで受けてもいいのでは?

実際そういうことをしているところもあるのかもしれないけど、私が調べた近場の「居場所」(フリースクール系含む)はほとんど独自のカリキュラムで、「自分たちでやりたいことを見つけて過ごす。楽しく過ごす。教科書は要らない。大人は指示せず見守る」みたいなところが多い。

お友達で、ある有名な先生が立ち上げた都内のフリースクールに通う子も、ランドセルにはお弁当だけ入れてると。「勉強」らしいものはしないけど生活の中で発見したり研究したりして「知」を伸ばしているみたいだ。


何が言いたいかと言うと、やりたいことをやるだけの子がいてももちろんいいし、学校を匂わせて欲しくない子が多いのだろうから登校刺激をする必要はないとは思う。でも、もし不登校の子の中に、少しでも学校に行きたい、これだけはやりたい、みたいな気持ちがあるならば、対立軸に置かず、学校と連絡を取ってその子に一番良い対応をしてあげられないかなということ。

イメージとしては病で長期入院している子が院内学級に転校しても元の学校にいつでも戻れるよう、連携を取る、みたいな感じ。 


言葉だけだと伝わりづらそうだし、不登校はそんなもんじゃないよと言われそうだけど(あくまでそれはそのご家庭のお子様の場合ではあるけれど)その橋渡し的な仕事をやってみたいなと思ったわけでした。 

大学時代教職資格を取っておけばよかったなぁと後悔。中学と高校しか取れないけれどないよりあったほうが良い。児童に関わることをやるにしても資格がないと難しそうだしなぁ。

保育士資格だけじゃどうしようもないえーんでも、何かそう言うことを(☜曖昧すぎニヤニヤ)やってみたい。