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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 冤罪。罪を犯していないにも関わらず刑事訴訟上の誤りにより、有罪とされ刑罰を受けてしまうこと。これほど理不尽なことはありません。最近、長年冤罪を訴えてきた方が、ようやく無罪を確定されたことがニュースとなりました。一方、昨年長年冤罪のため、無実を訴え続けて裁判で戦っている方と秩父でお会いする機会がありましたが、その当人が志半ばで病気により亡くなったと聞いて、非常にショックでありました。自分の犯した罪での刑罰、自分のしたことの報いでの苦しみは受け止めるしかありません。しかし、中には自ら他人の罪を背負って、もしくは背負わされて刑罰を受けている人、無罪を訴えることさえ諦めている人もいるかもしれません。

 約20年前、イエス・キリストの十字架の受難と復活を描写した「Passion」(パッション)という映画が配給されました。この「Passion」(パッション)という英語は、通常「情熱」という意味ですが、ここでは「苦しみ」の意味です。このPassionはラテン語、さらにはギリシャ語の原語からきていて、もともとの意味は「自分に原因がなく他のものが原因で、自分が体験しなければならないものすべて(善いことも悪いことも)」だそうです。しかし、悪い体験のほうが多いためか、次第に悪いこと、「苦しみ」だけを意味するようになったそうです。一方、なぜそれが「情熱」を意味するようになったかというと、情熱も自分で手に入れたり、自由にできたりする思いではない、自分の内部にある激しい衝動だから、そうなったそうです。

 イエス・キリストは何の罪も犯していないのに、当時のローマ帝国下の裁判で、十字架刑に処せられ、死なれました。十字架にかかるまでの暴力、恥辱を耐え忍び、一言も弁明もされませんでした。当時のローマの総督は冤罪だと分かっていながら、ユダヤ人たちの暴動を恐れて、彼らの言うままにイエス様を十字架刑に処したのです。人間の裁判では冤罪ですが、神様のご計画ではイエス様は最初から、すべての人の罪を負って代わりに処罰されるために人間として生まれたのです。罪が支払う報酬は死です(ローマ6:23)。ですから、人間は誰一人神の前で罪を犯していない人はいないので、全員死んで滅びる存在だった。しかし、神様はすべての人間が死なないで済むように、永遠の命を得られるように、キリストを代わりに罰せられ、私たちの罪が赦され無罪として下さったのです。神でなければ、全人類分の罪を背負うことができませんし、人間でなければ、人の罪を代わりに追うことができません。神が人間となられて、死んで、復活されたからこそ、イエス・キリストの救いの業を信じる者が、終わりの日に復活できるように、その初穂となられました。もはや人は死の恐れからも解放されるのです。

 イエス様の受けられたパッションによって、今、新しい命が与えられ、罪と死から解放されたことを、その大きな犠牲と神様の愛に感謝しつつ、受難節の最後の週を過ごし、イースターを喜びで迎えたいと思います。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』 すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。 するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」ルカによる福音書23章39-43節