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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

聖書箇所   コロサイの信徒への手紙3章12-17節
  
 〇新しい人を身に着ける 
  コロサイの信徒へ宛てられたこの手紙は、キリストの復活の生(いのち)に預かる者として、私たちがどのように地上でいきるかという視点と、また偽りの教えに惑わされないようにとの警告が記されています。キリストの復活の生に預かる生き方とは、洗礼で象徴されるように、古い私は十字架でキリストと共に死んで、キリストと共に復活させられた新しい自分が日々新たにされて、天のことを求める生き方です。ローマの信徒への手紙6章11節でも、
 「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と記されています。
 
  「考えなさい」は「みなしなさい」とも訳されます。根拠が無くそうみなすのではなく、信仰によって、古い自分は死んだとみなすということです。新しい自分においては、たとえこの世に生きている間引き続き罪を犯すことがあったとしても、以前のように罪に支配されない生き方であり、罪を犯さないようにキリストによって内側が変えられていくこと、それがキリストの復活の力によってなされます。ですから以前の、キリストを知らない時の自分ではないのです。
 
  本日の箇所は、コロサイ3章10節に「創り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達していく」との文脈で記されています。パウロは、私たちはキリストにあって新しい自分であるということ、一度きりではなく、日々新たにされること(現在進行形)を意識することを勧めています。新しい人とはわたし達のなす業全て、わたし達の生き方が新しくされていることを意味します。それには、復活されたイエスと出会う必要があります。そのことは大事なこととしてパウロが次のように記しています。
  「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである」(コリントの信徒への手紙I 15:3-5)。
  
  復活の主イエスと弟子たちが出会ったことを「キリストが…現れた」と表現しています。復活の主に出会ったから彼らは以前とは異なり、イエスが十字架につけられて絶望し、恐れていた状態から変えられていきます。顕著に現れるのは、ペンテコステで弟子たちに聖霊が注がれ上からの力を受けて、主イエス・キリストの福音を人々に宣べ伝えていきました。弟子たちのように、私たちは実際目で見てイエス様とお会できなくとも、私たちも復活の主イエスと霊的に出会い、そして新しく変えられることが可能です。神のみ言葉を聞き、聖霊の働きで私たちは信じ、復活の主イエス・キリストと出会うことができるからです。こうして福音は全世界に広がり、キリスト者が大勢いるということ自体が、見ないでキリストと出会い、信じられることの証しです。この信仰によって主イエス様の名を通して、父なる神様に祈り、インマヌエルという名のとおりイエス様が共にいて下さるという臨在を感じることができます。
 
 〇神に選ばれた、聖なるものとされた、愛された者の生き方
 本日の箇所は、さらに私たちは神に選ばれた、聖なるものとされた、愛された者であると記されています。キリスト者は新しい人として、神様に救われるように選ばれて、キリストの体として一つになるように呼ばれるために、神様が私たちを取り分けられて(聖なる者とされて)、神様から愛されています。だからこそキリストの生き方、キリストの愛の業がわたしたちキリスト者を通して、他者に対して現わされます。私たちは良い行いで救われるのではなく、救われた後にキリストの体なる教会という、共同体として礼拝を基盤とし、愛を中心とした共に生きるよう聖霊に導かれ、それが結果として良い行いや、自分たちの内側がキリストのような性質に変えられていくという希望があります。
 
 〇新しい人が身に着けていくキリストの性質
 12-14節に新しい人として身に着けていくことを目指す性質が列挙されています。憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け、互いに赦し合い、愛を身に着けるように、また、私たちの心の中でキリストの平和を常に持てるようとあります。これらのことを身に着けるのは、一晩ではできないと思います。ですから、身に着けることを「目指す」と申し上げました。「憐みの心」を持つには時間がかけて他者の必要や悲しみに寄り添っていくことで、キリストが群衆に対してもたれたような深い同情心を身に着けられればと願います。「慈愛」は「親切」と別訳であり、つまり他者に対するキリストのような態度ともいえるでしょう。「謙遜」とは自分に対するキリストのような態度といえます。キリストは私にどうしてくださったのかを思いだすと、自分の権利を進んで捨てられた、つまり神の御子が人となり十字架に向かってくださったその低さにより謙遜の模範を示してくださいました。世の中では差別されたり、虐待されている境遇があるので、人権を主張しますが、神の国では、キリストにあって一つであり、違いがなく、キリストに対するように互いに接すれば、互いに謙遜になれるでしょう。この世での生活は皆がキリストを信じていないので、「互いに」を期待できません。しかし相手がどうであれ、私たちキリスト者は、キリストが私たちにして下さったように、相手に接することが平和の道へつながるでしょう。「柔和」とは、わたしたちが他者に近づくとき温和で、やはり謙遜な姿勢。「寛容」とはわたしたちの他者に対する反応のことで、相手に対して自分の損得を言わない、寛大さでしょう。互いに忍び合うことに関しては、一人一人個性があり違うのですから、お互い「つきあいにくい」と思うことがあっても、その違いを互いに忍耐して受け入れることを目指していきたいと。そして最後に「互いに赦し合う」こと。自分は神様にキリストの命を犠牲にしてまで、たくさん赦して頂いているのに、なぜ相手を赦せないのかと考えてみる。たとえ感情的には相手を赦せなくとも、時間がかかっても、神様が相手を赦せるように心を変えてくださることを信じて、信仰で赦そうとまず決めるところから始められます。それにはまず自身が相手を赦すことを「決める」必要があるでしょう。
 
  14節「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい、愛はすべて完成させる絆である」と 勧めています。愛とは、人間の愛ではなく、キリストの愛であり、コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章4-7節に記されている愛の表れがこれらのことを完成される絆だと言っています。また「キリストの平和」ついては、個人のことだけでなく、共同体としてキリストのからだ全体を特徴づける平和を指しています。ですから、平和が教会の特徴であり、信仰者としてキリストの体にあって、私たちは平和に向けて召されています。私たちは平和を求める途上にあってまだ完成されていません。それでも、周りの小さなことから平和のために仕えることを心に留めて、生活していこうと思わされます。
 
  16節「キリストの言葉を豊かにやどらせなさい」キリストの言葉はキリストご自身でありますし、信仰者たちの内にキリストが宿られていますが、キリストを心の片隅においやらないことです。心の中心に自分ではなく、キリストをお迎えすることです。キリストの言葉が心を支配していただくように、いつも覚えていたいです。 また「知恵を尽くして互いに教え、諭しあい」というのは、教会のメンバー同士で、たとえば誰かがキリストの言葉から外れている行動をしているのに気が付いたら、見て見ぬふりをするのではなく、相手を裁くのではなく、柔和に御言葉を通して教えたり、諭そうとパウロは言っています。お互いがキリストの体の一部なのですから、自分のことのように考え、事柄によっては一人でかかえず、牧師や他の兄弟姉妹にも相談し、祈りの内に、その方に対応できるでしょう。

 そして詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神を褒め称えようと続きます。この三種類の賛美はみな神を褒め称える賛美であり、詩編は旧約聖書の詩編、賛歌や霊的な歌とは、新しい賛美、自発的な賛美も含むと言われます。時代によって賛美の仕方、奏楽の楽器も異なりますが、感謝して神様を褒め称える賛美であれば自由でよいと思います。
 
 〇主イエス様の名によって行う
  17節が本日のタイトルでもあり、以上の語ってきた内容の締めくくりであると言えます。日常生活のすべての行いが、主イエスの名において行われるようにとの勧めです。私たちが何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエス様の名によって行いなさいと記されています。主イエスの名によって、とはどういう意味でしょうか。一般に誰かの名によって行動するとはその人を代表することであり、またその行動のためにその名前によって力づけてもらうことを意味します。ですから、「わたしが主イエスを代表としてこれこれのことを本当に行えるであろうか?」と立ち止まって考えてから発言し、行動する、吟味することでしょう。何をするにしても平和と愛の源であるイエス様だったらどうされるか、自分の肉の思いやこの世の常識や価値観念だけで判断していないかと吟味し、キリストの言葉を私たちの心の中心におき、その導きに従って、行動に移さたらと願います。主イエス様によって、天の父である神様にいつも感謝しつつ、聖霊の助けによって、相手にイエス様を見、イエス様の名において、今週も歩んで行くことを互いに祈り求めていきましょう。                                                                                                  (新共同訳聖書 引用)