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聖書を読んで示されたことを記しています。礼拝でしたメッセージや聖書の学びの内容も載せています。

 私たちの新しい生き方は、洗礼が象徴的に示すように、古い自分は十字架でキリスト共に死に、そして復活でキリストがよみがえられたように、新しい自分が神様の恵みの下にキリスト共に新しい命に生きることです。本日はそのことについてローマの信徒への手紙よりわかちあわせていただきます。

 ローマ6章でパウロは3、6、9節 で「知らないのですか?(知っているでしょう?(反語))」、「知っている」と繰り返しています。これはクリスチャンの生活では御言葉(聖書)を通して、知るべきことを学び続けること、「知っている」ことが大事だから強調しているとされます。自分の救いについて、よく説明できない、なんとなく救われているという無知の状態ですと、サタンの攻撃の前に無防備となります。神様は愛を私たちに満ち溢れさせたい、神様との親しい交わりを持ちたいと人を愛する存在として造られたのに、サタンは創世記の3章で記されるように神様が意地悪な方であるかのように嘘をいって人に問いかけ、私たち人間を神様から離そうとしてきます。最初の人間アダムは、神様が豊かな園を用意し、そこでなんでも食べて良い、ただし園の中央にある善悪の知識の木からは食べるな、食べると死んでしまうと言われました創世記3:17)。エバは直接この命令を神様から聞いておらず、アダムを通して聞いていたので、よく知っていなかったことが続く蛇との会話からわかります。ですから蛇がエバに「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」と、神が言ってもいないことを問いかけて、彼女にその禁じられた木の実を食べるよう巧みに誘惑しました。そして食べたエバに勧められ、アダムも食べ、神様との約束を破り罪が人るに入ったとされます。

 このように神の言葉を、確信を持って知らないことは非常に信仰が弱く、誘惑に陥って、神様の恵みの約束は本当なのか?と疑いに導かれる可能性があるからです。現代に生きる私たちは神の言葉・聖書が口伝えではなく、書かれた書物として手もとにあるということは幸いです。

 救いの基本的真理は、キリストを信じる信徒はキリストと一体とされているので、信徒がキリストの死と葬りと復活と同じようになっているということです。ローマ 6:4「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」洗礼は古い自分のお葬式と新しい自分の誕生日です。 6: 5「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」ここで日本語訳は「あやかる」ですが、英語訳 5節は For if we have been united with him in a death like his, we will certainly also be united with him in a resurrection like his.(NIV)直訳 「もし私たちがキリストと同じような死に方においてキリストと一つにされたのであれば、キリストと同じような復活にも必ずキリストと一つにされるはずです。」

 

 人は罪と責めをアダムから引き継いでいますが、キリストを信じるとキリストが死んで葬られたと同じように、生まれながらの罪の古い自分は死んで葬られました。そしてキリストが復活されたように、新しい自分が復活し、キリストのゆえに神様に正しいと認められ(義とされ)ます。つまりキリストと一つに結ばれている、一つとされているので、キリストに起こったことは、自分にも起こっているゆえに、自分は救われているとはっきり言えるのです。私たちの見た目は同じであろうと、他人もしくは自分自身が、「救われる前と何も変わらないではないか」と評価しようが、神様の眼からみると、キリストを通して、新しい人とされていることを私たちは信仰で受け止めることです。

 それでも私たちがこの体で生きている限り、依然として肉体の欲望は残ってい、それに対し罪は私たちを様々な形で、SNSやメディア、他者を通して攻撃し、誘惑してくるという現実があります。しかし私たちは、救われる前のように罪に支配されてはいないので、かえって新しい自分が御言葉に養われて、罪を犯さないようになっていくということ、また罪を犯しても、イエス・キリストが私たちを弁護してくださると、ヨハネの手紙1 2:1に記されています。

「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 」

ですから、私たちは安心してよいのです。聖書の言葉を心に日々蓄え、それが自分への約束だと、そうなると信じて神様に祈り、聖霊の導きに従おうという生き方をこつこつしていけば、罪を犯さなくなるように神様が変えて下さります。たとえ犯したとしても、イエス様が「わたしは、すでにだれだれの犯した罪の為に十字架で代わりに罰せられたので、このことに関して彼は責めをおうことがない、無罪になります」と神様にとりなしてくださっているからです。

 私たちのするべきことは、罪を犯したらすぐに悔い改めて、イエスキリストの十字架により、赦しを受け取ることです。神様のほうで赦しているのに、自分で「赦されていない」と思う必要はないのです。神様の御業は完全で、全ての罪を赦して下さり、またキリストの十字架がすべ罪に関して、代わりに負ってくださり、私たちは責められることはないのです。

 このような聖書に書かれていることを「知らない」でいるのではなく、「知っている」そしてそれを自分のこととして受け取るという信仰の立場を取らなければなりません。それは、神の言葉が私たちに真実となること信じるという、信仰の立場です。私たちの主キリスト・イエスにあって、神に対して生きているとみなします。聖霊が私たちの救いの証印(エフェソ1:13)であり、その聖霊が一人一人の内に住まわれ、キリストの支配の下に神の愛によって生かされているからです。

 

「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(11節)の「考えなさい」という原語は、みなす、帰属させるという意味で、つまり、神の言葉で言われたことが、私たちにとって真実となるということです。私たちは古い自分自身をキリストと共に十字架につけられた者であり、主キリスト・イエスにおいて神のもとに復活させられたことにより、神のもとに生きている者とみなすべきです。

 

 このことを理解し、信仰で受け止め続けていれば、恵みの下で、神様が私たちを霊的に成長させてくださいます。 14節「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」

 

 私たちは神様の恵みの下にいるので、私は神に身を委ね、神の僕となっています。その結果、もはや世やこの世の物、肉的な思いに汚されることから守られ、聖なる人生へと導かれ、その最終的な結果は永遠の命です。もはや私たちが肉の思いに支配されなくてもよいように備えて下さっています。

 

 ローマ12章1節でパウロはこう言われます。「兄弟たちよ、神の憐れみによってお願いします。自分の体を、神に受け入れられる、聖なる、生きた供え物として捧げなさい。これこそ、あなた方のなすべき礼拝です。」ですからここで私たちは、自分の体を罪の道具としてではなく、神に自分を差し出しなさいと命じられているのです。「主よ、ここに私の体があります。主よ、これを受け取ってください。聖霊によって私の内に住まわれ、主よ、あなたの御心と望み、あなたの目的を成し遂げるために私をお使いください」と、祈ることができます。

私たちは今、霊に支配され、統制される新しい人生を生きることができます。イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた時、そのように私たちは受け入れたのです。そして、内に住まわれる聖霊は優しい方なので、わたしたちを強制的に支配しませんので、私たちが霊に満たされ、霊に支配されたいと自発的に望むよう、私自身が意識する必要があるでしょうです。救われてからは、罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実をむすんでいくのが、新しい恵みの下の生き方です(21節)。神の奴隷といっても、神が主人である者は愛の中で、自発的に主に従っていくという自由に生きられらます。

 

 神様は私たちの肉の弱さを理解してくださって、聖霊の力を与えてくださいました。罪に死んで、神に生きているということを神の言葉として信仰で受け止め、そのように行動しなさいとの勧めです。私たちがそう感じるとか、そう思うという事柄ではなく、信仰の事柄です。しかもわたしたちが行動できなくとも、神の真実に変わりはないのです。信仰も神様に強めて頂き、聖霊の助けを得て、神に対して恵みの中で生きることをいつも忘れないで日々神と共に、歩んで行けるよう、互いの為に祈り合いましょう。