創世記1章に天地創造が記されています。神様は最初に光を創り、光と闇に分けて昼と夜という一日の単位を創られました。そして、大空(水)を上と下に分け、地と海を分け、そして植物、天体、水中生物・鳥、その他すべての生き物、最後に人間を創られました。神様は人間だけを神様に似せて、かたどって創造されたとあり、自然界の他の造られたものを治めるように人間に命じました。そして、7日目に神様は創造の仕事を離れて、安息なさり、この日を祝福し、聖別されます。「聖」という言葉は「分離」を意味しますので、第7を神がご自身のために聖別したゆえに特別な日であります。神様はご自身の業を休まれ、全ての関心を被造物、特にその中心である人間に向けて下さいました。これが後に安息日の規定として、必ず7日目に私たちも仕事を休むよう、またこの日を神様のために他の日から取り分けるよう、十戒の規定の一つとなり、ユダヤ民族の間で土曜日が安息日として守られてきました。また、キリスト教ではキリストが復活された日曜日を安息日として、神様を礼拝する日とし、中世ヨーロッパで良くも悪くも制度化されました。現代でも世界的に週に一度休みの日というのはここから由来しています。
後に十戒の規定の一つとして出エジプト記20:8-11と申命記5:12-15に記されています。出エジプト記では神様は第七の日に安息なさり、第七の日を祝福し、聖別されたことが記されています。つまり、私たち人間もこの神の御業のリズムに生きよと、つまり神の創造の秩序を尊重するという趣旨があります。申命記では、イスラエル民族だけではなく、その奴隷となっている人々も、寄留している外国人も、そして人間だけではなく家畜も休ませるよう、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放されたことを覚えるために、主は安息日を守るように命じたと記しています。
しかしながら、ユダヤ人はこの安息日についての理解を単に、仕事を全くしない日として、神様が命じてもいない様々な細かい「してはならないリスト」・規則を作り、それを守るように人々に教えていました。そして、イエス様が安息日の日に病人を癒されると法律違反だと咎め、また安息日にイエス様のお弟子たちが麦畑の穂を積んで食べていたことを「してはならないことをしている」と責めよります。その時に言われたイエス様の言葉が「人の子は安息日の主なのである。」(マタイ12:8)です。人の子とはメシアを指し、イエス様は御自身のことを「人の子」と福音書で言われています。安息日はそもそも誰が定めたのかというと、神様であり、創造に業に関わられた子なるイエス様であるゆえ、御子イエス様に安息日に何をしてよいかの主権があるのです。神様が7日目に休まれて、安息日を定められても、天地創造以来づっと私たちのために働かれておられるわけです。もし神様が週に一度、24時間休まれていたら、人間の世界はどうなってしまうでしょうか、その日は神様はお休みでお祈りは聴かれないのでしょうか。危機的な状況がおこったら、安息日だからと言って神様は助けてくれないのでしょうか。助けて下さいます。だからイエス様は、安息日に38年間病気で苦しんでいる人を癒したとき、ユダヤ人たちはイエス様をとがめ、それに対してイエス様はこう言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」ヨハネ5:17。神様とイエス様は一つであります。
新約聖書においては神の民である教会において、キリスト者はキリストの十字架と復活による罪からの解放、救いの御業と、キリストに結ばれ神の子として「新しく創造された者」(コリント二5:17)とされたことを記念して、日曜日を主日礼拝として守っています。ペンテコステ以降の原始教会において「週の初めの日」に集まる習慣が、使徒言行録20:7やコリント一16:2に記されています。キリスト者にとって週の初めの日(日曜)はキリストの復活を祝い、キリストによる救いと、救われた私たちが新しく創造された者であることを思い起こす為に、神様の為に時間をとりわける日であり、私たちは礼拝を捧げる日と言えます。神様が私たちを、創造の完成である終わりの日の神の国にて神の子として生かすために元来創って下さったことを、またそのために御子を遣わすほどに神様が私たちを愛し、救いの業を今もなお継続して下さっていることを思い出し、感謝する日としたいです。安息日を御子イエス様の主権に目を向ける日として覚える、つまり主イエス様に目を向ける日とも言えます。
ヘブライ人への手紙4:3に、キリストによって神の民とされた教会、つまりキリストを信じるわたしたちクリスチャンが、神の安息日の休みに共に与ることができる、と記されています。つまり安息日にあずかる約束は、旧約聖書のイスラエルの民だけに言われたものではなく、福音が告げ知らされ、それを信じたわたしたちもこの安息に預かることができると記されています。
「それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だからわたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません・」4:9-11
ここでの不従順の例とは、エジプトから神様がモーセを通して救い出してくださったイスラエルの民のことで、彼らは荒野で神に反抗し心をかたくなにし、40年間の荒野での生活の内に死に、約束の地にはいれなかった世代のことです。彼らは不信仰のゆえに、安息に預かることができなかったのです。
だから、彼らだけにではなく、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っていると記されています。つまり人がキリストの救いに預かれれば、永遠の安息に入れられるということです。このことが真の意味で神の安息に入る、与るということを私たちは、このへブルの手紙を通して知ることができます。
そして神様は今も、神様の与える安息の祝福に共に与ろうと、全ての民に呼びかけ続けておられます。それはイエス様は、このように言われたことからもわかります。「わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」マタイ11:28
私たちは日曜日の礼拝において、神様の安息を味わっているでしょうか。主を礼拝し、御言葉を聞いて御言葉に養われて、また元気を取り戻し、心が引き上げられて、新しい週の始まる日に、教会から世の中に送り出されて行っているでしょうか。それとも、奉仕活動や伝道のための諸会議で忙しくしなければならない日になっていないでしょうか。もちろん、教会というキリストの体として各々役割があり、奉仕することは神様のためであり、人々に仕えるためであり、日曜日に忙しく何かしら活動することは悪いことでは決してありません。ただ、もし日曜日を「忙しい」と感じてしまうのであれば問題であり、自分は主にあって喜んで奉仕しているかどうかを、御言葉に照らして思い巡らす必要があるかもしれません。それぞれに与えられた果たすべき役目、その務めを誠実に果たすことも重要です。しかし、たとえそれを果たせなくとも、神様の私たちに対する愛は変わらないのです。宗教改革以降に信仰の問答集が各教会で作られましたが、その中の一つで、私たちが造られた目的は?との質問の答えが「神を知ることであります。」(ジュネーブ教会信仰問答)とあるように、この人生の中で神様と出会い、主に結ばれて、その喜びと平安を与えられるなら、それだけで私たちが造られた最大の目的は果たされていると言えます。主の安息に招かれその喜びと平安を深く味わい続けることが、この世で生きる最大の喜びであるからです。
私たちは、全ての民が主なる神を礼拝する日がいつか来ることを待ち望みたいと思います。それが本来の神様の創造の秩序であり、神様の救いの御業の完成はそこへと向かっているのですから、創造と救いの最終的完成を待ち望む日として覚えたいたいです。そして、礼拝の中で自分を主に明け渡し、その主の愛の中で、神の安息を共に休み、心安らぎましょう。