今日は少し考え込んだその内容を。

最近は、スマホ頼みの生活をしている私です。

でも、なんだかつまらない。

つまらないのです。

その原因が少しわかったような。

情報のリサーチ力がないと、質の高い情報が入って来にくい。

使い古された言葉ですが、メディアリテラシーがないと嘘の情報をつかまされることもある。

情報が多く、情報をふるいにかけるのが上手ければ、人生を変えるくらいの価値のある情報を手に入れることができる。鉱山に眠るダイアモンドにたどり着けるガッツや、スキル、もしくはダイアモンドを分けてくれる人脈があれば、そこに到達できる。

だけどあまりの情報過多に、吐き下しの状態になっている人もいる。私もそのうちのひとりだと思う。

ダイヤモンドの鉱山の麓の街で売られている、もしくは配られている、純度の低いガラクタにも似た石ばかりを集めて、ダイヤを買った気になっている。

もちろん、ここで投稿しているリソースは専門書から得た知識や経験、信頼のおける先生方から学んで身につけて来たスキル、過去の体験なので、ニセモノは一切ないのでご安心ください。

ネットを開くと、「誰でも簡単に、短時間でできる」ハウツー的な内容が跋扈しています。

誰だって、手っ取り早く身につけられるものなら身につけたいです。

ただ、そういう内容のものはあくまでも一時的なものにすぎない。短期間で成果が出るものは、それだけの価値しかない。恩師の言葉ですが、その意味が少し、わかりかけてきました。

ファストフードは美味しいし、簡単に手に入る、もちろん価値あるものです。ですが、それだけで栄養価を補うことはできるでしょうか。毎日そればかりで体を維持し、心を維持することはできるでしょうか。

やはり、インスタントなものは、インスタントな要求にしか応えることしかできない。

インスタントが悪いというわけではないですが、それだけでは危険です。

近頃感じているつまらなさは、そういうインスタントな情報に辟易していることも原因かもしれません。

ネットを開けば、これでもか、というほど、あなたにおすすめの情報がおしつけられてきます。もちろん興味のある内容に違いないのですが、その内容の厚みがなんと薄いことか。

そして、それに踊らされてしまっている自分がいる。

そんな日常の薄っぺらさから、少し距離がほしい。

やっぱり、骨太な論文や、長文を読むのには労力が要ります。苦手です。でもほんとうに価値あるダイヤモンドのような、そういうものを手にしなければ、心も体もカスカスになってしまう気がします。最近感じるつまらなさはそういうことなのかもしれないと思います。

手軽に安く、もしくはただで手に入るし、それなりに見えるからこれでいっか。

今の自分はインスタントで武装して中身のない人間になっているのではないか。

いま携わっているすべてのことに対して、誇りが持てるか。ほんとうに誰かの役に立てているか。
及第点が取れたらおっけー、になってるんじゃないか。

そこでは精神的な満足感は得られないかもしれない。

わたしはレッスンに関して、その時間に来てくれている生徒さんに対して、いまわたしがその方に教えられるすべてを渡しているつもりです。それに関してだけは、誰にも負けないつもりです。だから一時間のレッスンでの集中力は半端ないです。その方の声を、歌を、おそらく相当な集中力で聞いていると思います。1分もその方から気持ちを外していることはない、と思います。そういった意味で、純度の高いダイヤモンドのようなレッスンを提供できていると信じています。

でも、まだまだできることがあるはず、とも思います。声の本質迫ることを追求するのは、時代錯誤かもしれません。時流にあっていないのかもしれない。

でも、そこまでやるか、と思わせるくらいのことを、まだまだやる余地があるかもしれない。

話が脱線しましたが、わたしもブログでは簡単に取り組んでもらえるような情報のほうが、読んでもらいやすいかと考えて、すぐにできるコツを紹介したりしていますが、わたしの伝えたいことは、もっと深層部にあるのかもしれません。

レッスンでは、直接言葉にしませんが、心と声は密接に繋がっていて、その人の本来のすがた、虚飾や思い込みによって隠れているんでいるその人の、あるい「仏」の部分を、声を解放することによって、彫り出したい、そんな風に思っています。

歌は、自分の喜怒哀楽を押し付けるものであって欲しくない。ひとを幸せにするものであってほしい。うまい、とか、すごい、とかを見せつけるものであってほしくない。

また、自分の怨念や、欲望のようなドス黒い思いを歌に込めて、世の中に垂れ流して欲しくない。そっちで処理してくれ。と正直なところ思います。

そういうものを芸術と呼ぶ向きもあるでしょう。

でも、わたしは、それを聞く人のことを考えてしまいます。自分の歌を聞いて気分が良くなってほしいです。

それはさておき、仏教でいう「即身成仏」という言葉をご存知でしょうか。煩悩を捨て、悟りを開けば、生きながらにして仏になれる、という意味だったと記憶しています。その人の中にはそもそも仏が内在して、修行をしてそれを覆い隠している煩悩をすてることで仏が現れる 、ということだと思います。

それと同じかはわかりませんが、わたしはそういうイメージをしています。その人の仏の部分が現れるようにしたい。そういう歌をもっと聞きたいのです。

歌で演技をしたり、ファッション的に歌手をやったり、怨念を込めたり。嘘や軽薄さ、呪い。インスタントや濃度の高い毒と同じ。

その辺りを履き違えている人のなんと多いことか。

また、インスタントなものをあたえておけばいいや、という姿勢の人の多いことか。

そういうのってほんとにつまらない。

ここしばらく、正しいか正しくないかより、向かい合っていることに対してエネルギーをどれだけ注げているかの方が大事、という考えでいましたが、やっぱりそんなことはない。自分の向けているエネルギーの矛先が間違っていないか、というのはとても大事です。無知は罪という言葉があるように、エネルギーの矛先を間違えると、戦争のような悲劇を生むことだってあり得る。自分がやっていることが、エゴではなく、誠実であるか、正しいか、そんなことを大事にしないとつまらない。