こんにちは。
今日は新元号の発表の日でしたね。「令和」というのは万葉集に基づくものだそうですね。
このブログでも新元号に触れないといけない気がするので今日はその万葉集に関連した内容です。
今日の投稿に関してはかなり思想的で個人的な内容ですので、実用的、実践的なネタをお探しの方は別項をご参照ください。
歌うってなんだろう
感動ってなんだろう
芸術ってなんだろう
ということをわたしはよく考えます。
芸能をやっている人、というのは一種のメディア、つまり媒体なんだろうなあと思います。
天からとか宇宙とか、どっかから、歌や芸術というツールを以って霊的な力を帯びて、なんか大きなエネルギー的なものを地球上とか一般大衆に向けて放ち、周りの人の気持ちを豊かにする、そんな存在なのかなあと思っています。よくクリエイトする人が「何かが降ってきた」なんていう表現も同じことかな、と思います。
そういったエネルギーを伝える魂の入った歌、というのは胸にくるものがあります。
それが個人的などす黒い思いであれば、胸にどすんのと黒い錘がおりる感じがします。
純粋な思いであれば胸に漣やしみじみと白い淡い光が広がるような感じがします。
いい悪いではなく、きちんとエネルギーを伝えているものは、なにか胸に響く
ものがありますよね。
話が逸れましたが、そういった芸能者、言い換えればエネルギーの媒体となる存在はどこからくるのでしょうか。日本の芸能の源流は。
現在はボイトレの聖典となっている、俗に『黒本』と呼ばれる「ボーカリストのためのフースラーメソード」(武田梵声著 /2012年 リットーミュージック)という書籍がありますが、その中で日本の芸能を知るための一つとして「万葉集」が挙げられています。フースラーメソードと万葉集はなんら関係のないように思われますが、
著者の武田先生は主に折口芸能学をもとに芸能を知らなければ、フースラー発声学を完成させることができないとういう風に考えておられるようで
す。その脈絡で万葉集が紹介されています。
下記、『黒本』から引用です。
「折口信夫を知らずして、芸能も、歌謡も、言語も、声音も語ること
は許されない。私にこう断言させるほどに折口信夫先生は、芸能と声音を誰よりも深くとらえていた。恐らくは、瞬間的にならば折口信夫先生は、原初古代人すらもとらえきれないような、芸能の内奥性に触れていたように思うのだ。
この折口信夫先生を育んだのが日想観であり、万葉集であった。
〜中略〜
★マレビト論 万葉集からは、文献上の最古の巷間芸能人(こうかんげいのうじん)ホカヒビトに着目し、これに台湾蕃族の芸能、大王崎の常世実感、先島のアンガマア、マユンガナシ、アカタマ・クロタマ・シロタマの実感を重ね合わせることで、かの有名な“マレビト論”を発想されるのである。」
ホカヒビト(脚注参照)いわゆる流民が日本の芸能の発生につながっていったということだと思います。
詳しくは下記の折口信夫の文章を読むとよくわかります。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46963_27476.html
元号が新しくなり、万葉集に光があたることは間違い無いと思います。
多くの人が日本の古代に思いを馳せる機会が増えると思います。
その中で、日本の芸能の源流を辿り、日本的な美的概念を思い起こすことで、芸能の本質に迫るきっかけになるのではないかなあ、今日の元号の発表をみて
そんなことを考えました。
脚注 ホカヒビト
「古代には土地ごとに多くの有力なカミがいた。そのうち神々の戦い(部族の勢力争い=国家成立のプロセス)が始まり、大和朝廷が奉ずるカミ、アマテラスを中心に八百万の神々が再編成されて行く。この過程で敗れた神々を奉じていた多くの人びとは流民(ホカヒビト=乞食)となって流浪の人生をおくることとなった。ホカヒビトは、自分が奉じるカミのメッセージをより効果的に旅先の村々に伝えるため、また自らの食い扶持を確保するために、歌や踊りなどに仕立てて自らの技芸を高めていった。これが日本の芸能の発生に繋がって行く。」(ウェブサイトから引用)