パートとは、自分の中にある一部分を指す。私たちはしばしば「私の中にある何か」が○○するなどと言うときがある。その何かは、独自の信念・価値観・欲求を持っていて、あたかも一つの人格を持っているかのように見える。
実際にはその都度、様々な思考・感情・欲求が出ているのに過ぎないのだが、人格としてまとめて捉えると諸々便利になる。多重人格とまでいかなくても、私たちは内面を覗くと、多くのパートがあることを発見できる。

● NLPにおける人格の考え方

この考え方は、精神分析では「エス」「自我」「超自我」、交流分析では「大人」「子供」「」の3つの人格に分ける。ユングは、「ペルソナ」「シャドー」と分ける。NLPでは、特に種類を分けたりはしない。

NLPにおけるメタプログラムLABプロファイルでも、人間のパーソナリティを固定するようなタイプ論の考え方はしない。人はコンテキストによって別の人格を現すとしている。

この人格に実体を見出さないところが、プロセス重視、構成主義と言える。NLPでは、人を固定的に見るのではなく、常に変化している、変化が可能なものとしている。

● 相手がどんな人なのか

その人がどんな人なのかはコンテキストによる。場によって見せる顔が異なるのだ。
同じ人でも、別の人から見れば全く別人に見える。強面のやくざも、孫の前では超優しいおじいさんになる。人が、どのような人格を表すかは、相手との関係性による。

相手からこう思われている、というのがあると、それに合わせて振舞おうとする。一貫性を保とうする働きがある。相手の理解力、興味に合わせて話題を変えるのと同様、相手の人格と自分との関係に合わせる。相手と一緒にいると、以前の「場」の記憶がアンカーとなって、相手の知っている「自分」を演じてしまう。

なので、いつも接しているからと言って、その人のことを熟知しているわけではない
24H×1週間隣同士にいるなら、さすがに隠せなくなってくるが、仮に夫婦関係であっても、隠れることは可能だ。

認知バイアスで、相手はこういう人間だという思い込みがあるから、多少それた行動があったとしても、無視してしまい、思い込みに沿った情報のみを拾うようになる。なので、見ているのに「見えない」という現象が起きる。一目でわかるような詐欺師にずっと騙されていたということが起きる。

● 本来は多重人格
 

一つの人の中には、多くのパートが住んでいる。なので、その人の強いパートを指して、傾向をつかむことはできるが、この人はこういう人だという規定はできない。
また、その強い・弱いもその瞬間のスナップショットである。潜在的に持っていたものの、あとで消える可能性もある。

人間は、本来多重人格者なのである。眠っている間は、理性が働かないから、そのステージに現れたパートが夢を展開する。起きている間は、理性が、自分はこういう人間だ、こう見られている、こう期待されている、というアイデンティティに一貫性を保つような行動を取ろうとする。統合失調症の場合は、この働きが弱いので、多重人格となる。

●人間には全部のパートがある

他者を見て、「私はあんな人間ではない」「あの人の持っているパートは私にはない」と思うことがあるが、それは、間違っている。程度の多少はあるものの全部あると思った方がいい。

●本当の気持ちはあるか?

パートという考え方からすれば、パートの本心というものはあっても、その人の核となる気持ちはない。深いレベルでは、パートが望んでいることは一致するかもしれない。が、浅いレベルであれば、どれが「自分」の本心か、などとはしない方がいい。

より深いもの、より強いもの、それを大切にするのはいいだろうが、それがすべてではない。もっと深いところに別のものがあるかもしれないし、その横に別のものがあるかもしれないし、時間が過ぎれば別のものが登場するかもしれない。

パートという考え方は重要だし便利なものである。

感情、思考が湧いてくるがどれも本当の自分ではない。前はこう言っていた、こうしたいと言っていたのに、今度は逆のことを言っている。コロコロ変わりすぎり、都合が良すぎる、何をしたいの?と思うが、これはそれぞれ別のパートが意見を言っているせいである。

対外的には、周囲からの一貫性の圧力によって、理性によって一貫性を保とうとするのだが、実際の自己の内面では、正反対のパートがいろいろと動いている。

あるパートがAだと言う。そうすると別のパートが、いや違うと言う。更に別のパートが別のことを言い、さらに別のパートが、そういう状況にトータル的なコメントをする。まるで、会社で異なる意見を持つ多くの参加者がいる会議のようである。

意見がまとまらなければ、争いが起きる。自分の内面だと、葛藤となる。だが、どれも所詮自分ではないのだ。

一人の時間を持ちたいパートと、他の人と繋がっていたいパート、両方ある。この考えが便利なのは、自分の中で、一貫させる、統一させる必要がないことである。

あるパートの欲求を満足させれば、他のパートは不満に思う。これが何をやっても満たされない原因だったりする。一番強いパートが満足して、他のパートを圧倒するなら、自分の内面は全体として満足感に包まれるだろう。

●肯定的意図
欲求は、抑えると反発して増大する性格もある。そういう場合、認めて何もしないというのは有効な手だ。取り敢えず、意見だけは聞いておく。そのパートの気持ちをわかってあげる。そして、その肯定的意図を辿っていく。そうすると満たす手段は別にある、もしくは究極的な目的の状態はそもそも最初から自分に備わっていることに気づく。

●肯定的意図の連鎖

出てきた肯定的意図に対して、さらにその意味、それを通じて得たいものをたどっていく。多くの場合、最終的にはコア・ステートに至る。これに特化したワークが、コア・トランスフォーメーションである。

 

ただし、コア・ステートに到達せず、堂々巡りになってしまうケースがある。「幸せになること」→「より活動的になるため」→「幸せになること」のように。最終的なところにたどり着いている場合はよいが、浅いレベルでぐるぐる回っている場合は、深い部分に到達するために、以下の点に注意した方がよい。

 

それは、自分にとってどうか、が肝である。もし、世界平和とかとなると、外側に意識が向いてしまっているため変容は起きない。世界平和、他者のため、というのは美しいし、それが望ましいようにも見える。しかし、それは綺麗事に過ぎず、自己満足というか、自分に酔っている場合もあれば、自己犠牲すべき、自分の利益を口にするのはエゴイスティックだという思い込みがあるせいかもしれない。実際には、自分の内側が満たされていない限り、自分が幸せでない限り、人を幸せにすることはできない。それをないがしろにした状態で、他者のために、とやっても変容は起きない。

●パートの統合

異なるパートが多く自分の中にある場合、どのパートの意見を採用したらいいのだろうか。一つのパートの意見を聞いたら、他のパートが不満に思う。
そこで必要になってくるのが、先程も述べた、パートの目的肯定的意図を聞いていくことだ。そうすると、最終的には同じ目的を持っていることがわかる。そして、目的が重要なので、目的が満たされるなら、手段は別の選択肢を取ってもよくなる。
自分の中の多くのパートが統合され、一つの方向に向かうようになる(アライメント)と、非常に大きな力になる。

●副次的効果


何かを改善しようとしたときに、抵抗を示すパートが出てくる。これは、その症状によって副次的効果ある場合で、変化することに抵抗するのである。例えば、病気があることによって人から優しくされている場合、病気が治ったら優しくされなくなるかもしれないと思って、病気を維持しようとしているパートがいるのである。なので、この副次的効果を認識した上で、それを維持する別の方法を探して、そのパートを納得させる必要がある。

●外側に見せる自分


内部に動いている様々なパートをそのまま外側に表現していたら、周囲からは掴み所がない人、支離滅裂な人とされかねない。それはそれで正解なのであるが、周囲を混乱させないためには、心のなかでは様々な声がしたとしても、行動は、自分が最も価値を置いていることに基づいて行うのがよい。