母が 私を産んだのが、3月15日。

母が この世を去ったのが、3月25日。


今日は 母の命日。

いちばん 母を思い出す日。


  


5年前、母は 病院のベッドの上で

お誕生日おめでとう」と

満面の笑みで 言ってくれた。


生んでくれて ありがとう」という

私の言葉を聴いて 更に ニコニコ笑っていた。


その10日後、

もう家に帰れないと わかった途端、

「ほな、もう逝くわ。 バイバイ!」

という感じで この世を去った。


なんと、母らしい 潔さ。




42歳で 私を産み、

父と一緒に 愛情いっぱい注いでくれて

のびのびと 育ててくれた。


食事は楽しく

母が 教えてくれたおかげで

好き嫌いの無い人間に育ちは したが、

食いしん坊バンザイ女にも なった(笑)



私が 小学校1年生になる直前に

引っ越しをして 家が変わった。


ピカピカの1年生になった 登校初日

私は 迷子になり、捜索願いが出された事件。


1年生の登校初日は たしか 帰るのは 午前中。


もちろん、集団下校も 初めてで、

私の地区は A班と B班に 分かれていた。


どちらの班にも 知る顔は ない。


「勘」で 並んだ私・・


(これが そもそもの間違いの始まり^^;)



この地区は、学校から 家が遠い。


みんなで 並んで帰っている途中に

偶然、買い物に行く私の母と 出くわした。


(よく考えたら・・・ なぜ この時、買い物に??^^;)


母も、一緒に居る同級生たちの顔を 知らない。

なので、私が班を間違えていたことに 気付いていなかったのだ汗


母 「このまま一緒に 買い物行こう!」

私 「みんなと一緒に 最後まで帰るから大丈夫!」

母 「じゃぁ、すぐに帰るから、待っててね~」

私 「いってらっしゃーい♪」


1年生になったことで

急に 大人になったような気がした?私は

母の誘いを断って ひとりで帰れると 言い張った。


(一緒について行っとけば よかったのに)



同級生は 次々と

「ばいばーい♪」と 班から 抜けていく。


私も 「ばいばーい♪」

明るく手を振る 能天気っ子^^;


付添いのお母さん(たぶん)の

「大丈夫? 帰れる?」という問いに

「うん、大丈夫!」と元気に答える 能天気っ子^^;



で、とうとう最後、私ひとりに なった。


はてさて、ここは どこ!?状態。。。


ピカピカの制服、帽子、靴、ランドセル。

おまけに 新1年生の腕章も付けて。


その姿で 探検開始するしかなかった。


人に 自分の家を聞きたくても 聞けない。

自分がどこに居て、どこに帰ればいいのか

わかっていなかったのだから・・・あせる



気が付けば、夕方。。。


(何時間、制服のままで 彷徨っていたのだ???^^;)

私は、中学校の裏門辺りに居た。


(これが 後に 私の通う 家から近くにある中学校^^;)


部活を終えた当時中学生の

お姉さんたちが 気付いてくれた。


「どうしたん? 誰か待ってるの?」


そこで泣いたかどうかは 覚えてないけど、

迷子になって 家に帰れなくなっていることを知り、

正門の前にある 交番まで
中学校を通り抜けて 連れて行ってくれた。


行ってすぐに お巡りさんが

あ、お母さん心配してはるよ!」と。


小学校1年生の初日に

私は 「捜索願い」という

システムがあることを 知った。


すごい学びだ。



すぐに 母が迎えに来てくれた。


母が お巡りさんや 中学生のお姉さんたちに

深々と頭を下げて お礼を言っていた。


と、ここまでは覚えているが、

この後の記憶が まったくない。


ただ、母が ニコニコしながら

泣いていたことだけは 覚えている。



お母さん。


改めまして。


のびのびと 育ててくれて ありがとう(笑)



あー 泣けてきた。。。・°・(ノД`)・°・



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