反抗期は始まったら終えるものです | 上原和音の似非随想 -Esse Essay-

上原和音の似非随想 -Esse Essay-

心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き連ねるつもりの、エッセイじみた企画をば。あやしうこそものぐるほしけれ。

反抗、というのが随所に出現する行動であるのはもう疑いようのないことであって、小さい頃の「やだ!」の連発から始まり、思春期の「うっせえよババア」が続くのがヒトの一生、個人にとどまらずロック、パンク、レジスタンスの「時代への反抗」「体制への反抗」等々もまた然り。

今回はうっせえよババアはさておいて、ロックとかの話です。

俺達は抑圧されている、だがそれに俺達は屈しない、音楽を奏でて俺達は抵抗する、みたいなのは50~60年代辺りにあってもう本当にかっこよかったわけです。エルビスがテレビで少し腰を振っただけで大問題になった当時、大音量のギタードラムベースを鳴らし大声で叫ぶボーカルなんてもう刺激そのもの。

それ以降、ハードロック、パンク、メタル云々と変わっていくわけですが、はて今はどうか。

反抗すべきものってあるんですかね。

別に音楽にこだわらなくてもよくてですね、「女性の権利を!」「男女平等!」みたいな話もね、同じなんですけど。

何かに反抗することを唯一のエネルギーとして沸き起こった動きはその目的を達した後どうなるのかと、ふと思ったわけです。

特にまあ「平等」を謳う系の反抗ですよね、危ないのは。

我々は抑圧されている、不利益を被っているのは我々だ、我々は弱い、故に力を求め反抗する、みたいなのって、いつまでもやるべきことなのでしょうかね。

かつてはよかったと思うんですけど。どうなんですかね、そういう事どもがすっかりと話題にのぼりきった現代では。

話がぐっちゃぐちゃになってきたので苦し紛れにロックの話に戻りますと、Rollyさんが「ありがちな反抗への反抗を目指してきた」みたいなことをどこかで話されていて、上原はそれだ! と思いましたよ。

反抗期は終えるもの。