突つきあう24時 | 上原和音の似非随想 -Esse Essay-

上原和音の似非随想 -Esse Essay-

心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き連ねるつもりの、エッセイじみた企画をば。あやしうこそものぐるほしけれ。

自分の時間を大切に、仕事とプライベートをしっかりと区別し、ワークライフバランスを意識して、生きていらっしゃる方々が多いようです。


上原は自分を含めまだ働き始めていない人々の中にいるので、一番よく聞くのは自分の時間がどうこうという話。

こうすると自分の時間が無くなるとか、自分の時間を大事にしたいから云々とか、そういうやつだけれども、突き詰めるまでいかなくとも少し考え始めるとすぐに妙な気分がするのだな。

自分の、って何ぞや。

時間というのはとりあえずなん人たりとも1日24時間、1年365日という風になっているわけで、まあこの分け方についても割と人間様の勝手によるところが大きい気もするが、それはそれとして空気くらいのレベルでどこにでも浸透しているものである。

持つ者と持たざる者で運命がきっぱりと分かれてしまう事象も多い中で、時間は比較的フェアな持ち物である。

と、普通に書いてしまうけれど、この何気無く発生する「持ち物」的感覚は一体何なのか。

浸透しているのなら酸素日光等々のレベルで所有の概念から解き放たれていて然るべしなのではないのん。

My Oxygenとか、My Sunlightとかいうのがどことなくスッキリしないように、My Timeもスッキリしないはずなのだ。

そんな中で、「自分の時間が無くなるとワークライフバランスが云々」となめらかに語る方々。

24時間365日はもうそこにあって、勝手に流れてゆくのだから、それに身を任せてたゆたっておればよろしいのではないのですか。

別に鍋の中の肉であるわけでもなし、いやおでんの卵とかでもよいけれど、そんなに焦って自分の皿に取り分けようとしなさんな。

別に私のものでもないですがあなたのものでもございません。

食べて寝て出して、仕事をして、遊んで、たまあに誰かと寝て、その他諸々、全部がひとつながりに流れの中に入っている。

みんなが空気、大気の中にいて、酸素を吸い込んでいるのでありましょう。時間もそういう感じでいこうよ。

もしかしたらまあそのうち空気も取り分けないといけない時代になりそうな気も一瞬したりするのであるけども、それは何というか息苦しいことだね。

脱線したって?

ワークライフバランスの話はまあ、あれです、そんなに働くのがお辛いんですねえとしか言いようが。

自分の時間が欲しいのですか、それはお辛いですねえ。

共感の姿勢。