3・1・1で、エモーショナル | 上原和音の似非随想 -Esse Essay-

上原和音の似非随想 -Esse Essay-

心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き連ねるつもりの、エッセイじみた企画をば。あやしうこそものぐるほしけれ。

つい半年前ぐらいにツイッターを初めてからというもの毎日のようにつぶやいてしまっているわけだけれども、今日もそんなこんなでつぶやいていたらがっつりと腹を立ててしまった。

原因は友人(?)のこんなツイート。


今年も何もせず何も考えてないにも関わらずこんな時だけ被災地を心配しているふりをして自分に酔う皆さんがSNSに出てくる日がやってきましたよー!!


8割がた原文そのまま。

こういうのはまぁ放っておけばいいのでしょうけども、元来気性の荒い上原はどうにも看過することができず。

しっかり噛みついてその後はいわゆる「エアリプ」の応酬で半分喧嘩に。

とりあえずエアリプ合戦は終結したものの、上原の怒りは未だおさまらず。

というわけでここからは、久しぶりなのに何かアレですが、とりあえず怒らせてください。



まぁまず、そういうことをいけしゃあしゃあとつぶやけるその面の皮の厚さに何とも辟易なんでございますよ。

で、噛みついてみたらそういう話ではない、お前のことではないとさも自分が悪くないように言うけれども。

それがまず卑怯ですわ。

何とでも取れるようなことを言っておきながらちょっと反論されるといや僕の言ってるのはそういう意味ではなくて~みたいなやつ。

クソみたいな政治家に多いクソみたいな逃げの一手ですわ。

そういう後出しじゃんけんみたいな論理めいたものばかり使ってさも勘違いしているのはお前の方だみたいな顔をしながら今まで生きてきたんでしょうな。



確かに、被災地復興という名目のもとによくわからん行動をとる輩も多いわけで、それに関しては肯定はあまりできんけども、少なくともSNSか何かで震災について発言している人の多くの気持ちが向いている方向というのは決して悪くないのではないかと思うのです。

そういうまっすぐな気持ち群に対して平然と揶揄を飛ばす浅はかさといったらないよ。

と書いてみてきれいごとが羅列されている感にとらわれはじめたけれども、こういうときはきれいごとだ何だと口を挟む余地はないのであり、こういうときでもないときれいごとはプラスの意味をもたないのであるよ。


だからそういう軽い発言はつつしみたまえ、君がいくら軽い人間だとしても。





はい、以上怒り。


たぶん上原は発言自体に腹を立てたのが半分、そもそも発言の主が気に食わないのが半分なので、ただの文句みたいになってしまいましたがそれはともかく。





今日で2年だそうですよ。





2年も経つもんなんだね。

時間が経つのは当たり前なんだろうけど、何か2年も経たなくたっていいのではないのと思ってしまうよ。

そして2年というのは決して短くはないけども、やはり毎年この日になると気持ちがぐちゃぐちゃになる。

その結果としての整理整頓の全く出来ない怒りだったともいえる。

上原は住んでいる場所が場所だったため、2年前には実害を全くと言っていいほどに受けなかったのだけれど、だからこそ、この日にこんな感じで発言をすることには一定の抵抗がある。

おそらく自分が家や家族や友達をなくしたような状態でこんな文章を読んだらただではすまないだろう。

お前が言うなと。のうのうと助かったお前が何を偉そうにと。

でもどうしようもない力が働いて、何も言わずにはいられなくなってしまうのであるよ。



そんなことで、年末でもあるまいし、3・2・1みたいなことはひっくり返ったってやりたくないけども、もうすぐあの時間になる。