デカルト先輩チィーッス | 上原和音の似非随想 -Esse Essay-

上原和音の似非随想 -Esse Essay-

心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き連ねるつもりの、エッセイじみた企画をば。あやしうこそものぐるほしけれ。

いや、馬鹿にしているわけではないんです。

近代哲学を冒涜するつもりは断じてございません。

デカルト主義者の方、『方法序説』を愛読されている方、いや、そんな方がこれを読んでらっしゃる確率はかなり低いとは思いますが、というか今時デカルト主義者なんているんだろうか、まぁとにかく、どうかお許しを。



はい。



で、本題に入りますけども、僕は結構小さい頃から、いつ頃でしょう、正確にはよくわかりませんが、「○○という事柄について自分だったら××なことを考えるみたいなことを想定している自分は今ここにいる」的な感覚を、非常にぼんやりとではありますが、持っておりました。

自分が何枚もの鏡に何人も写っているような、そんな感覚です。

これが何となく自分の中で言語化できてきたのが中2のときぐらい(ああ、いかにもな感じですけど)で、高校に入って倫理を習っていた時におぉ、と思ったのでした。

デカルトは徹底的な懐疑でもって身の回りのありとあらゆるものを疑っていく中で、どう頑張っても疑いようのない真理を探し求め、ついには、「いま何かを疑っている自分がここに存在していることだけは疑い得ない」という結論にたどり着いた、そしてそれを言い表したのが「我思う、ゆえに我あり」、すなわち「コギト・エルゴ・スム」であって、デカルトはこれを第一真理として思索の開始点とした、みたいなことを習ったわけです。



これはまさに自分がかねてから考えていたことではないのか!

というか、何百年も前にここまですげえことを考えていた人がいたのか!

てっきりオリジナルだと思っていたら何ということはない、デカルト先輩の劣化版の発想だったわけです。

いやまぁ冷静になってみると、これって「俺デカルトとおんなじこと考えてたぜドヤァ」みたいなことを謂ってるのとほぼイコールなわけで、おこがましいこと極まりないのですが、とにかく高校在学当時はそう直感してしまったのでした。


まぁこんなことがあったものですから、上原はついデカルトを先輩呼ばわりしてしまいます。

妙な親近感があるんですよね。

それにしても、自分で自分を遠くから見ているような感覚に没入していくのは昔から好きでして、今でもたまに懐かしいなぁと思ってやってみたりする時があります。