古典に詳しいわけでもないんですが | 上原和音の似非随想 -Esse Essay-

上原和音の似非随想 -Esse Essay-

心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き連ねるつもりの、エッセイじみた企画をば。あやしうこそものぐるほしけれ。

徒然草だの、土佐日記だの、なぜか冒頭から古典ネタが多くなっている似非随想であります。

そこまで古典が大好きとかいうわけではないんですけどね。


ただ、書き出しが素晴らしい文章、もっと言えば、文章の書き出しには非常に関心があります。

素晴らしい書き出しを読んでおぉ、となる感じが好きですな。

特に小説において。

名作と呼ばれる作品は大抵が冒頭の一文で記憶されていたりするものです。

パッと思い付くのは川端康成の『雪国』。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

これだけでもう十分素晴らしいですけども、この後に、

夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

ですからね。

いやぁもう、ニクいね。

その他にも言わずもがなの名作はごまんとありますが、最近の作品からも。

例えば、伊坂幸太郎さんの、『重力ピエロ』。

春が二階から落ちてきた。

おぉ。これは。

あふれでる才能への、まともな言葉で到底表せぬ感動。

言葉にならないという言葉は自分の仕事に対する逃げになるから使いたくない、と社説に書いていた新聞記者の方がいたけれど、上原は迷うことなく逃げます笑



でまぁ、なぜ自分がそんなに書き出しに惹かれるのかについてふと考えてみますと、それはおそらく何かでかいものがうわっと立ち上がってくる瞬間に特別なものを感じているからなのではないかと。

この一文から何百ページに渡る物語が、人物たちの悲喜こもごもが、いや悲喜こもごもとか軽々しく言ってはいけないのかもしれないけれど、そういうものが始まっていくのだなぁという感慨。

ラストの一文を読みきって、ははあなるほどね、うん、よかった! という感じも好きですけども、僕はやはり、書き出しを読んで感動させられるのがたまらなく好きです。

ラストに行き着いてから冒頭へ返り、ここから全ては始まったのだなあと陳腐な感想を抱きながら一人でふんふんうなずくのもまた好きです笑


だからこの似非随想も毎回毎回書き出しにはこだわっていきたいとは思うのですが、こだわりすぎると書き出しだけで何時間もかかってしまったりするので、意外と適当にわっと書いているというちょっと残念な現状。