上原和音の似非随想 -Esse Essay-

上原和音の似非随想 -Esse Essay-

心に浮かぶよしなしごとをそこはかとなく書き連ねるつもりの、エッセイじみた企画をば。あやしうこそものぐるほしけれ。

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70~80年代の音楽がとても好きだ。ロックンロールの「腐敗」が嘆かれ、産業ロックなどという言葉も生まれ、メタルも流行ったけれど次第にポップ、AOR、ディスコミュージックが隆盛を極めていった70~80年代の音楽がとても好きだ。上原は1991年生まれなので、大雑把にまとめるとこれらは自分が生まれる10年前の音楽だ。

誰しも自分が生まれる10年前の音楽というのがあり、そしてその音楽は各人にとって非常に大きな意味を持っているのではないかと勝手に思っている。単なる10年前の音楽ではない。自分が存在していなかった時代に鳴っていて、つまりはどう足掻いてもリアルタイムでは体験できないけれど、そこまで遠くないようにも感じられるのが、「自分が生まれる10年前」の音楽だと思う。

そういう音楽に対して感じるのは何か。たぶん、「憧れ」という言葉が一番使いやすいのではないかと思う。
当然、「懐古」にはなり得ない。自分が当事者として文字通り「その場に居合わせなかった」ものを懐かしむことは原理的にできない。ただし、憧れ、あれにもっと近付きたい、という感情は、懐かしいという気持ちと同じ方向を向いているような気もする。

話がなかなか本題(本題が何かも自分で分かっていない)に入らないけれど、要はそうした憧れから作った音楽を今鳴らすのはとてもかっこいいことだと思うのだ。2016年現在に10~20代である人間が80年代ミュージックへの憧憬を込めて奏でる音に、同じ90年代生まれの20代としてはたまらない興奮を覚えるということだ。

the oto factoryという現役大学生で構成されたギター1人とシンセサイザー3人という斬新な編成のバンドがいる。
彼らの曲に「浮気なパーティーガール」というのがある。とんでもなく格好良いと思う。
まず、「浮気なパーティーガール」というタイトルがもつ空気感は完全に80年代のそれだ。誤解を恐れずに言えば、時代遅れなんていうレベルではない。その辺の女子高生ならダサいとすら言えず、「なんか意味わかんない」で片付けてしまう可能性まである。そして歌詞に繰り返し登場するのは「朝までディスコ」というワードだ。もしかしたらディスコ全盛の80年代ですら歌詞に入れるには小っ恥ずかしかった恐れがある。

しかし、この2010年代に、浮気なパーティーガールが朝までディスコで踊るという歌をトークボックスで、柔らかなシンセサイザーに乗せ、シティポップとして鳴らすことが最高に格好良いのだということを彼らは知っている。

現役大学生ということは、彼らにとっての「生まれる10年前の音楽」も80年代、とりわけディスコミュージックなのだろう。もちろん本意は分からないし、勝手に決め付けるのは非常に申し訳ないのだけれど、きっと「浮気なパーティーガール」はディスコを知らない世代がありったけの憧れを乗せて、クラブでも夏フェスでもなくディスコで朝まで踊った、そんな曲なのだと思っている。

あの頃のようにまた踊りたい、追体験として踊ってみたい、ではない。
the oto factoryは、2016年に「朝までディスコ」を実際に実現しているのだ。本当のディスコを見たことがない世代が作るディスコミュージックは、紛れもなく今しか鳴らせない最先端の音楽だ。

80年代を経験した世代には古く聞こえるのかもしれない。でも我々には新しいのだ。古くて新しいという言葉は何だかダサいので使いたくない。ひとえに格好良い。痛切に格好良い。