エッセイ:1

 

1;女性小説家のエッセイ

 

私はエッセイを読むのが好きである。特に女性小説家のエッセイが好きだ。小説を書くということはやはりものすごい才能だと思う。その上出版されて読者がいるということは途方もないことだと思う。小説を書いたけれど出版されていない小説家は無数にいると思う。出版はされたけど読者がいない小説家もいると思う。小説家の中で小説以外の分野で才能を発揮している人はいるがほとんどは趣味か道楽程度にとどまっている。森鴎外・夏目漱石・三島由紀夫のようにあらゆる分野で活躍していた人もいるがそれはほとんど例外である。現代の女性小説家はどうであろか。申し上げにくいが小説以外に才能を発揮している人はほとんどいないようである。他の分野でも生かせる才能を持っているけれどもその才能をすべて小説に注ぎ込んでいるという感じがする。持っている才能をすべて一つの分野に集中させなければ現代世界で認められるものは生み出せないのである。今述べたことは女性小説家のエッセイから学んだことである。彼女らから小説家という才能を取り去ったならばふつうのただのおばさんなのである。自分のすべてを小説にそそぎこんでいるのである。だからこそたくさんの読者をつかみ取ることができるのである。日本人にとって小説家は医者・弁護士・国家公務員・政治家よりも尊敬される。もしかして一番尊敬される職業かもしれない。小説家をスーパーマンのように思っている一般の人は多いと思う。小説家の知識・教養はなみすぐれていると勘違いしている人が多いのである。そうではないことは女性小説家のエッセイを読むとよくわかるのである。女性を蔑視しているのではない。男性小説家は見栄を張って自分の知識・教養をひけらかすのに懸命である。女性作家はおおむね自分に知識・教養などないと胸を張っているのである。だから読んでいてとてもおもしろいし楽しいのである。私は女性作家のエッセイを読んでいる時が一番しあわせである。

 

2:二二六事件の首謀者

 

二二六事件で処刑された青年将校は17名であった。現代人は彼らを反逆者・犯罪人・テロリストなどと呼ぶ。彼らの死を無駄死に・犬死にと言う人もいる。はたしてそうであろうか。人の死は誰の死であろうと崇高であり尊いものなのではないのか。生きている人が死んだ人を評価することが出来るのだろうか。もちろん評価すること自体は自由である。私が言いたいのは果たしてその評価が正しいかどうかということである。誰が正しいかどうかを決めることができるのだろうか。それが正しいと言えるほど生きた人間は立派なのであろうか。立派に生きているのであろうか。立派に生きていない人間が死んだ人を評価していいのだろうか。国を変えようとして変えることが出来ずに処刑された青年将校。国を変えようとして変えることができずに国民の血税を給料として死んだ政治家。どちらが犬死にであり無駄死になのであろうか。

 

3:NHKの大河ドラマ

 

「豊臣兄弟」を5回ほど見た。アパートに大型テレビが備え付けられていたからだ。おもしろくなかった。これを面白いと思う人はたくさんいるだろう。おもしろくなくなったのは私自身が変わったせいだと思う。私が最初に見た大河ドラマは「国盗り物語」である。それ以前はテレビがなかったのだ。テレビが買えないほど貧乏だったのだ。初めて観た大河ドラマは本当におもしろかった。それ以後ずっと見続けた。最後に見た大河ドラマは「篤姫」そして「天地人」であった。それ以後はほとんど全くみていない。なぜ見なくなったのか。それは歴史に対する見方が変わったからである。テレビドラマには必ず主人公がいる。それ以外の人は脇役でありその他大勢である。テレビドラマを見慣れた人は歴史までもそのように錯覚してしまう。歴史には主役はいないのである。脇役もいないしその他大勢の人々もいないのである。すべての人が主役なのである。教科書に出てくる歴史上の人物が歴史をつくったのではない。この世のすべての人が歴史をつくったのである。そのすべての人を記述することは不可能である。なぜなら資料がないからだ。資料が残っている人にスポットあてて歴史を記述したのがいわゆる「歴史」なのである。歴史の教科書を読んだ人はあたかも教科書に出てくる人物が歴史を作ったかのように錯覚してしまうのである。大河ドラマを観ている人たちも同様な錯覚をしてしまう。豊臣兄弟がまわりの人すべての中心となりまわりをすべて動かしているような錯覚をおこしてしまうのである。大河ドラマが好きな人は自分もそのような人物でありたいと妄想してしまうのである。「すべての人はみな偉大でありそして同時につまらない人間なのである」。この真実がわかった時大河ドラマはおもしろくなくなった。この真実がわかったからますますおもしろくなったという人もいるかもしれない。

 

4:人の命と引き換えに救われた命

 

 「人の命はみな平等でありはかりにかけることはできない」。これはほとんどすべての人が納得し受けいれることができる。車にひかれようとする子供を助けようとして子供は助かり助けた人は死んだとしよう。死んだ人がノーベル賞の候補に挙がっている学者だったとしよう。どうしてもその子供のこれからの人生とその学者の人生を比べてしまう。はかりにかけてしまう。「人の人生はみな平等でありはかりにかけることはできない。」と言ってしまうことができるだろうか。納得して受け入れることのできる人は果たしてどのくらいいるであろうか。人生は平等ではなくはかりにかけられるようである。たいへん有能な脳外科医で多くの患者を救ったことのある女性がいたとしよう。その女性が仕事をやめて財閥の息子と結婚して子供を産んだとしよう。その子供がその後ろくでもない人生を送ったとしよう。どうしてもその女性の人生と息子の人生を比べてしまう。はかりにかけてしまう。「人生はみな平等でありはかりにかけることはできない」。これを納得して受け入れる方法は一つしかない。「人生は幻想である」と解釈するしかないのである。人生を幻想ではないと思う人は人生をはかりにかけて生きていかなければならないのである。人の人生よりも自分の人生がしあわせなのだと錯覚して生きていかなければならないのである。

 

5:「病院生活もまんざらではないなあ。」

 

医療ドラマをよく観る。病院に入院した患者がしばらくたったある日に決まって言うせりふである。私にはこの気持ちが非常によくわかる。現在の私はほぼ個室の入院生活と同じだからである。ただ一つ違うのは自分で食事を作らなければならないということだけである。しかし入院生活よりももっと楽なのである。なぜなら医者と看護婦に接触する必要がないからである。発達障害者にとって人とコミュニケーションをとらずに済むのはストレスフリーなのである。それではなぜ一般の人は病院生活をまんざらではないと思うのだろうか。まず仕事から解放されるからである。次に人とのコミュニケーションからも解放されるからである。この二つがいかにストレスなのかが入院することによって証明されるのである。病院の中にまで仕事を持ち込む患者がいる。会社の人と連絡を取ったりする患者もいる。こういう人たちはけして病院生活をまんざらとは思わないのである。せっかくストレスから解放されるチャンスをみずから放棄しているのである。病院へはあまり見舞いにはいかないほうが患者のためだと私は思う。私は35回職を変えた。つまり34回の入院生活を送ったことになる。入院生活が3年に及んだときもあった。一週間ぐらいのこともあった。平均するとおよそ一か月くらいであろうか。おかげで私はうつ病にならずに済んだのである。別に計画的にそうしたのではなく本能がそうさせてのだと思う。ストレスに耐え一つの会社で頑張っている人たちのことを考えると私は胸が痛む。本当にたいへんなことだろうと思う。うつにならずにいる人は奇跡だと思う。がんにならない人も奇跡だと思う。この社会で生き抜くということは奇跡なのである。

 

6:親兄弟をかばう韓国ドラマ                                                          

 

 韓国ドラマで親兄弟をかばうシーンを見ると昔の日本もあんな風だったんだろうなと思ってしまう。昔は親兄弟よりも優先されるものが存在したとは考えにくい。現代は社会が複雑になり過ぎて親兄弟よりも優先されるものが出来てしまったようだ。名誉・地位・お金などがそうである。法律もそうなのだと思うが実は親兄弟の大切さを法律も認めている。裁判などにおいては親兄弟の証言は採用されない。親兄弟は裁判において身内をかばうという前提があるからだ。これは身内をかばってもやむをえないという消極的な理由からだろうか。あるいは身内をかばうのは当然であるという積極的な理由からだろうか。現代の人たちは前者であると思っている人がほとんどではなかろうか。しかしながら昔の人たちは後者であると思う人たちが大多数だったのではなかろうか。現代は親兄弟よりも法律のほうが優先される時代である。親兄弟が警察に連れていかれるのを黙って見つめるしかない。昔は頂上にあったものがいまはどのくらい下のほうに位置するのだろうか。たぶん将来下に移動することはあっても上に移動することはないかもしれない。日本は韓国よりも進歩したのであろうか退化したのであろうか。

 

7:なにものでもない自分

 

 私は一般の人が定年を迎える年齢までずっとモラトリアム人間であった。ずっとなにものでもなかったのである。なにものかであるということは他者にとってなにものかであるということだ。なにものでもないということは他者にとってなにものでもないということである。現在私には他者と呼べるような人はまわりに全くいない。全くの孤独といってよい。つまり私は現在なにものでもないのである。それではいったい私はなにものなのであろうか。結論を言えば私は私自身なのである。私と同年代でなにものかであった人たちは今現在なにものなのであろうか。私と同様に自分自身であると言えるだろうか。そのようにはっきりと言い切ることの出来る人が果たしてどのくらい存在するだろうか。「常に他者とともにあり常に他者にとっての自分を追求してきた人々にとって果たして自分自身というものが存在するのであろうか」。定年を迎え現在職についていない人たちはこのことに今深く悩んでいることだろう。ずっとモラトリアム人間でありずっとなにものでもなかった私はずっと私自身であり続けたのだ。

 

8:外国語を生かすとは

 

 外国語を学習する目的は人それぞれだろうがだいたい名誉・地位・お金に要約できると思う。もしお金を得るために外国語を習得したい人がいるならここにおもしろい事件がある。替え玉受験でTOEIC956点を日本人に獲得させた中国人がいる。替え玉受験のために英語を学んだわけではないだろうが結果としては英語でお金をもうけたことになる。「英語を生かした」ことになったのである。ほんとうに英語が好きで英語を勉強している人がどのくらいいるであろうか。英語を勉強すること自体が英語を勉強する目的だという人がどのくらいいるだろうか。最高レベルの英語を習得する人はそういう人達なのでないだろうか。お金を得るために英語を勉強している人は「お金レベル」の英語しか習得できないのではないだろうか。外国語習得にはモーチベーションが必要だといわれる。しかしモーチベーションによって獲得された英語はモーチベーション程度の英語なのではないだろうか。もちろんそれはそれで立派な英語なのであろう。むしろモーチベーション程度の英語さえ習得できずに挫折してしまう人がほとんどだと思う。私は英語のバイリンガルだが現在それを生かすことは全くしていない。これからもそうだと思う。それでは何の役にもたっていないのか。実はそうではないのである。たいして英語が出来ていないころはなにしろ人前で英語をひけらかしたかった。自分は英語が出来るのだとアピールしたかった。今は人前で英語を話そうとは全く思わない。人前で日本語を話そうとは思わないのと同じである。私は人とコミュニケーションをとらずとも自分が自分自身であるという確固とした自信があるのだ。

 

9:アメリカ映画を字幕なしで観る

 

 アメリカ映画が字幕なしで90%ほど聞き取れるようになった。日本の映画を観てもだいたいその程度であろう。英語に関しては私が到達出来る頂点かもしれない。われわれ日本人が日本の映画を観ていると100%聞き取れていると錯覚してしまうがそんなことはない。全体の状況から聞き取れないところを補っているからなのだ。字幕を見ながらアメリカ映画を見て英語の勉強をしたという人がいる。それなりの英語力は身に着けるだろうがバイリンガルには成れない。我々日本人が日本の映画を見ている時には英語などは頭にない。アメリカ人がアメリカ映画を見ている時には日本語などは頭にない。つまりアメリカ映画を見ている時に日本語が頭の中をちらほらしてはいけないのである。日本語が頭の中を飛びかっている間はバイリンガルとは言えないのである。さてアメリカ映画を字幕なしで90%聞き取れるようになって不思議なことがおこった。ある人がどの程度の英語力なのかその人が英語を話しているだけでわかってしまうのだ。日本のメディアには数多くの英語の堪能者が登場する。ところがその人たちの英語を聞いていると実にたいしたことはないのである。要するに堪能であると評価している人たちの英語力がたいしたことがないのである。英語の面接は実に効果的な方法だと思う。しゃべるのを聞いているだけでその人の英語力がただちにわかってしまうからである。

 

10:梶井基次郎の「檸檬」

 

 いろいろな図書館に行った。具志川市立図書館・琉球大学図書館・世田谷北烏山図書館・日本大学図書館・国会図書館・葛飾新宿図書館・大阪中央図書館・中之島図書館・市川図書館・伏見中央図書館・名護市立図書館・沖縄県立図書館・大阪市島之内図書館など。どれもその本の多さに圧倒される。圧倒される本の前に私はただのレモンほどの存在にすぎない。その本を書いた無数の著者の前に私はただのレモンにすぎない。しかしどんなに歴史上偉大な人物であろうともやはり私と同じレモンに過ぎないのではないか。世界中の本をすべて集めたとしてもそれは一個のレモンに過ぎないのではないか。これまで歴史に現われたすべてに人を全部あつめても一個のレモンに過ぎないのではないか。梶井基次郎の小説「檸檬」を読むとそう感じてしまう。