11:自衛隊

 

徳川幕府は260年間も続いた。武士は本来軍人である。平和な時代になぜ軍人が長い間日本全体を支配することができたのであろうか。武士が行政を担当したからである。軍人はアルバイトのようなものになってしまったのだ。自衛隊はおよそ75年間も存続している。軍人ではあるが実際に戦争をすることはない。こちらから戦争をすることが出来ない軍隊には大きなメリットがある。戦争をすることが出来る軍隊が巨大になるとアメリカ・ロシアのように実際に戦争をしてしまうのだ。アメリカの軍人はそれなりに尊敬されている。その一方ではなぜ軍隊に無駄な巨額の税金を使わなければならないのかという素朴な疑問が存在する。その疑問を解決するには実際に戦争をしてみなければならないのである。戦争をしない軍人。それは常に軍人にとって相当なプレッシャーなのである。たえずみずからの存在価値を問われるのである。軍人は何とか理由をつけて戦争をしたいのである。特に巨額の税金を使う巨大な軍隊はそうである。アメリカ・ロシアの大統領は軍人の巧妙な説得に負けてしまうのである。軍人に踊らされてしまうのである。ロシアはウクライナに侵攻した。アメリカはイランに侵攻しようとしている。ハメネイを殺害することによって軍隊はその存在価値をおおいに示した。天下無敵という幻想を見せつけたのだ。これをきっかけに軍人は巨大な軍隊の存在価値を国民に見せつけたいのである。中国は必ず台湾に侵攻しなければならない。そうしなければ人民解放軍の意味がなくなるからである。これに歯止めをつけるには日本の自衛隊のようにこちらからは戦争ができないという憲法を持たなければならないのである。憲法9条はそのような理想のもとにつくられたものではない。しいていえばただの偶然の産物なのであろう。しかしながらこちらからは戦争が出来ない軍隊を持つことができたのである。憲法9条がどのように改正されるかわからないがこちらから戦争が出来ない軍隊であることの意義はきわめて重大である。

 

12:あまりにも分化する英語力

 

ユーチューブでTOEIC満点という人が偉そうに能書きをたれている。ありがたそうに聞いている視聴者がいる。TOEIC満点と言うといかにも英語のあらゆる分野に精通しているという錯覚を与えてしまう。日本語能力検定試験で満点を取ったからといって日本語のすべてに精通しているわけではない。TOEIC満点というのはあくまでもTOEICの能力が満点なだけである。英語の世界は果てしないのである。TOEIC満点でも会話がほとんどまったくできない人もいるのである。会話がペラペラでもTOEICの点数が高校生並みな人もいるのである。とにもかくにも英語力は分化・専門化しているのである。英語のあらゆる分野に精通している人はきわめてまれなのである。シェークスピアがイギリス人以上に読めても会話がまったくできない人もいるのである。会話がイギリス人並みでもシェークスピアが全く理解できない人もいるのである。予備校の英語の先生は大学受験の英語の専門家なのである。その先生のところにアメリカ人を連れて行って会話ができるかどうかを試してみても無駄なことである。英語のバイリンガルだからといって予備校の英語の先生になれるわけではない。日本人は英語の小説をネイティブ並みに読める人よりもネイティブ並みに会話が出来る人にあこがれるようである。日本人は日本語を話す。だからといって日本語のすべてに分野に精通しているわけではない。ペラペラと日本語が話せても日本語の本を全く読まない日本人もいるのである。そういう人たちの日本語はいかにも底が浅く軽薄なものなのである。ペラペラと英語を話しているかのように見える人たちの英語はだいたいそのようなものなのである。

 

13:昔は何を食べてもおいしかった

 

昔は何を食べても本当においしかった。特に子供の時に食べたものはおいしかった。昔を思い出してそれらの食べ物を食べてもそれほどおいしいとは感じない。食べ物がまずくなったのではない。私の舌が肥えてしまったのだ。あるいは期待しすぎているせいかもしれない。これは書についてもいえる。昔は何と美しい字であろうと感心したものが今ではそれほどのものとは思えない。私もそれなりに上達したのである。昔をなつかしんで食べ物を食べるのはひかえたほうがいいのかもしれない。ところがどうも新しい食べ物に挑戦するというのは勇気がいるようだ。どうしても今まで食べたことがあるものにかたよってしまう。特に一人暮らしの孤独な私は食べ物をすすめてくれる人もいない。あいかわらず昔をなつかしんで食事をするのである。食べ物はそれを食べた時のことを思い出させてくれる。食べ物自体が思い出なのである。食べ物とともに思い出にひたることができるのである。食べ物は舌だけで味わうものではないのかもしれない。きっと「思い出」という味覚があるのだろう。

 

14:那覇マラソン

 

 那覇マラソンに出場したことがある。記録はほとんど6時間に近かった。スタートラインでの人の数がすごかった。そしてだんだんと人が消えていった。英語を勉強する人たちは那覇マラソンのようである。スタートラインに立った時の気概はものすごい。中にはひやかしあるいはとにかく参加しようという人たちもいるが多くの人々はゴールにたどり着けると夢見る。英語を習得しようという人たちの中で果たして何名がゴールにたどり着けるだろうか。簡単に数えることが出来るほどの人数であろう。私は55年間走り続けた。そして今も走っている。うしろには誰も見えない。はるかうしろを見ても誰も見えない。

 

15:「命の現場から」

 

「命の現場から」は7シリーズある。私はこのシリーズを一年間で3回観た。一度目が那覇のアパートで二度目が前のアパートで三度目が現在のマンションである。三回とも違ったドラマのように思えた。私の見方が変わったのである。というよりも私自身が変わったのだと思う。引っ越しによって自分自身が変わったのである。人の死は理不尽である。それはだれしもよく理解できる。しかしながら人の「生」こそが「死」よりも理不尽であることに人は気づかない。これから死んでいく患者よりもこれから生きていく医者・看護師そしてまわりの人たちの人生こそが理不尽なのではないのか。「死」がどうすることも出来ないように「生」もまたどうすることも出来ないものなのではないのか。人生は思いのままであるというのは幻想なのである。たまたま思いのままになることがあったとしても思いのままにならないことのほうがはるかに多いのではないのか。思いのままになる割合が多いのがしあわせな人生でありその割合が少ないのがしあわせではないということなのである。その割合はひとさまざまである。それが理不尽というものなのではないのか。「命の現場から」は人の死を通して人の生をえがいたドラマなのである。