第442連隊

(Four Forty Second Infantry Regiment)

―マウイ通信―5                

               アユタヤ

11月に入り、常夏のマウイもさすがに朝晩は少し涼しくなってきました。それでも1618度程ですから気持ちの良い朝晩です。日中は相変わらず30度前後ありますが、北東から吹く貿易風が夏場より多少涼しくまた穏やかになってきたので、お蔭様であまり汗もかかず、とても過し易い気候になっています。

先月末には早々と頭の鯨の姿が西マウイ沖で発見されました。夏場アラスカ沖で暮らしている鯨達が冬場は出産と子育ての為に数千マイルを泳いでハワイ沖にやって来るのですが、12月中旬にはこれらの鯨を船上から見るホエール・ウォッチングもいよいよ始まります。人間社会でも、「Snow Birds」と呼ばれる人達が、カナダや米国本土の寒い地域から少しずつ戻りつつあります。ここマウイにも秋から冬の訪れを知らせる変化が僅かずつながら確実に現れつつあることを感じます。

さて、F49号で少し触れましたが、「F」に因んだ話題の延長線として、今号では第二次世界大戦で稀に見る武勲を立てた日系アメリカ人だけで編成された第442部隊(Four Forty Second Infantry Regiment)のことを取上げてみたいと思います。

少し遡りますが、今年の7月のマウイ新聞の一面に「Henry Takitani Dies」と言う記事が出ていました。たまたま、私が勤務するゴルフ場のメンバーに同姓の人がいるからでしょうか、ふとこの記事が気になり読み進んだ所、日系人のTakitani氏は元上院議員で、マウイの教育界の向上に多大な貢献をし、第二次大戦中には第442部隊に所属して欧州戦線に派遣された人でありました。

彼は、ホノルルの高校に在学中の17歳の時に、日米開戦のきっかけとなる1941年127日の日を迎えます。この日、彼は学校近くの公園にいた時に日本軍の飛行機が真珠湾を攻撃するのを目撃したのです。その後間もなくして、彼の父親は米国政府によってオアフ島にある敵国人収容所に強制収容されることになります。彼は、祖父がそのことを大変悲しがっているのを見て、高校を卒業するとすぐに空軍に入隊することを決意します。空軍に志願して入隊すれば、米国政府が彼の父親を強制収容所から釈放してくれることを願った様です。彼自身は、ドイツ軍が降伏した日にイタリアのナポリに第442連隊の兵士として上陸し、実際には欧州戦線での枢軸国を相手にした壮絶な戦いには参加していないのですが、後述する通り、第442連隊は米国陸軍の歴史に燦然と輝く戦績を残して、ファシズムと日系人に対する偏見・差別と言う二つの戦いに勝利を収めることになるのです。

日本軍の真珠湾攻撃を境にして、「卑怯な奇襲」を行ったと言うことで米国人の日本に対する敵意は、次第に米国に在住している善良な日系人に対する憎悪や敵対感情に変わり、多くの日系人がスパイの嫌疑でFBIに連行されることも頻繁に起こる様になります。米国に骨を埋める決意をした米国移民の日系一世の人達もしかり、況や米国で生まれ育った日系二世・三世の人達にとっては、ルーツは日本にあっても自分達は米国市民であると考えていただけに、誠に屈辱的で納得のいかないことでありました。

しかし、日米の戦争が始まった流れの中で、この様な理不尽は止まることを知らずどんどんエスカレートし、終に1942年2月には、米国西海岸に住む日系人約11万人が、殆どの財産を接収された上に、全米十ヶ所に散らばる強制収容所に収監されると言う事態に発展します。私が以前駐在していたロサンゼルスでは、ダウンタウンから北東20マイル程に位置する、サンタアニタ競馬場の厩舎を急遽改造した悪臭立ち込める仮収容所に集められ、そこから全米に散らばる収容所に送られていったと言う痛ましい話を聞いています。

たまたま当時のハワイは在住日系人の比率が人口の半分程度を占めていたこともあり、もし米国西海岸の様に日系人を悉く収容所送りにすると社会が成り立たなくなると同時に、膨大な費用と場所が必要になることをハワイ当局は懸念し、日系人社会の幹部や僧侶・日本語教師など数百人をホノルルのサンド・アイランドに強制収容すると言うことで、米国西海岸とはいささか事情が異なっていた様です。

日系人が敵性外国人として強制収容所送りとなる中、米国で生まれ育った日系二世の人達を中心に、日系人の信頼回復と収容所送りとなった日系一世の親達の釈放を願って、米国への忠誠心を示す為に、日系人による部隊の創設を米国政府に願い入れようと言う動きが出てきます。しかしながら、日系人への知識不足や偏見もある中、なかなかその願いは聞き入れられず、やっと1943年1月になって、時のルーズベルト大統領によって日系人部隊の創設が承認され、米国陸軍の第442歩兵連隊がスタートします。部隊には、ハワイから約2600人、米国本土の強制収容所から約800人の日系志願兵が入隊します。本土の強制収容所からの入隊者が少ないのは、収容所における親日派・反日派の対立や収容所に強制収監された言う境遇などの影響があったからだと言われています。

442連隊は、編成当初、米国本土出身者とハワイ出身者の間の対立や、日系人部隊に対する陸軍内部の偏見などから紆余曲折を経験しますが、次第にその対立も解消され、実力も認められる様になっていきます。終には欧州戦線において「Go for broke(当たって砕けろ)」の合言葉の下に勇猛果敢な戦いぶりを発揮し、累積死傷率320%(延べ死傷者9486人)、個人勲章獲得総数18000個、名誉負傷勲章6700個(1人当たり2個)と全て全米軍部隊中1位の前代未聞の記録と多大な犠牲を払って、米国陸軍の歴史上に名前を残す輝かしい部隊となります。

しかしながら、この様な輝かしい戦績にも拘わらず、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わることがなく、米国の故郷へ復員した日系人兵士への風当たりは厳しく、「ジャップお断り」・「ジャップを許すな」などの激しい言葉を投げかけられ、仕事に就くことも出来ず、財産や家も失われたままの状態が暫く続きます。その後、やっと第442連隊の戦果が大々的に公表され、同時に日系人が置かれた状況が広く報道されるようになって、反日系人的な世論も徐々に変化していきますが、それが現実のものとなるまでには1960年代を待たなければなりませんでした。

そして、ようやく1965年6月には、キング牧師など公民権運動家達の活躍もあり、全ての人が人種・皮膚の色・宗教・出身国などを理由に差別されことのない平等の権利が保障される公民権法が成立し、日系人も俄かに「模範的なマイノリティー」として賞賛される様になります。更に、1988年のレーガン大統領の時に、戦時中に強制収容された日本人に対する補償法案が成立し、アメリカ合衆国は戦時中の日系人に対する過ちを謝罪し、1人当たり2万ドルの補償を生存者に限って行うことになっていきます。

こうして第442連隊の功績が讃えられ、ファシズムと人種差別と言う2つの敵との戦いに終止符を打ち完全に勝利するまでには何と戦後40年以上も要しました。1868年の最初の移民以来、長い間米国と日本の狭間に立って、人種差別・偏見・貧困と言う厳しい現実に直面しながら、第二次世界大戦と言う試練を経て、それを克服してきた日系人の不断の努力と多大な犠牲なくしては、今日のハワイにおける日系人並びに日本人社会は存在しえなかったことを改めて自分の心に刻み付けておきたいと思います。また、ハワイ日系人のこうした歴史を省みるにつけ、日本人特有の勤勉さや忍耐強さと言ったものが彼らの中に脈々と受け継がれてきたことを再認識し、とても誇りに感じる次第です。

442連隊の戦死者とその関係者の方々に合掌!