このタイトル↑↑↑ 大河ドラマ的に
タイムリーですよね
狙ったわけでなく、
取材の新規ネタの
取って出しなんだけど。。。
(物部城跡地にある、曽我五郎十郎のお骨の一部を
祀ってある、地蔵たち @京都府綾部市)
ご覧の通り、遺骨の一部を供養された、場所です。
前回の「丹波の上原氏」の語りのつづきです。
曽我兄弟の仇討ちを計画された、「富士の巻き狩り」
はっきり史実で、フィクションではないと、
この寂れた山城の墓地が、語っています。
「鎌倉殿の13人」の最新回を観た方なら、
歴史の教科書に出て来て、
一番ややこしくって、わけわからん事件。
もっと古代の「蘇我入鹿」と間違えてしまう、事件。
アレのおかげで、1193年
「丹波の上原氏」が誕生したらしいのです。
クーデターが成功か失敗かは ともかく。
そのアレ(💦)で 大変功績をあげて
いっぱい獲物を獲ったんでしょう。
もしくは源頼家の巻き狩り初陣成功を
お膳立てしたのか、
たいそう御家人や頼朝に引き立てられて、
一介の諏訪分家豪族が、丹波の一国一城の主に
「異動」「栄転」に成ったわけです。
諏訪神社の神官の家系なんで、
接待ゴルフみたいに、「チョコレートにぎる」
なんてことは、しなかったと思いたいんですけど。。。
ねえ、脚本の三谷さま
まあとにかく。
最初に丹波に土着となった「上原氏」は
足利幕府奉公人の細川家の配下として、
上洛の際の〈馬ぞろえ〉などに
金銭的奉公もしています。
あの忠興の用意した金紅色燭蘭小袖にも。
。
で。
第2弾の逃げ延びて来た「上原氏」。
諏訪の本家でありながら、落城で
生きてる兵士や姫や嫡子は逃げこんでくるんです。
情けないけど、これが私の御先祖さん。。。
長ーい時間かけて徐々に徐々に
上原氏が 丹波に流れ込んで来て
武田の血統を持ちつつ、
とっても豊かな里で生きてゆきます。
第3弾の奈良の大和経由組もね(^_-)-☆
それくらい、豊穣の地を
明智光秀が統治監修していたとも云えるのです。
明智57万石の隣接地に、
「物部城」を統治していたのは上原氏ですが、
土着の豪族が「下士」として
封建的にないがしろにされていきます。
「上士」は、上原氏の後に改易になってやって来た
「九鬼氏」で、江戸時代に平定後
「綾部藩」と改正。
現在の綾部市の範囲は、
九鬼氏の「綾部藩」谷氏の「山家藩」
幕末の土佐藩のようには
「上士と下士」の反乱はないですが、
その分、地域全体が弱体化して行くのです。
【上原氏の十三墓】について
綾部市史からの抜粋です↓↓↓
○ ーーーーーーーーーーーーーーーー ○
十三墓は、1571年(元亀2年)物部城城主の
上原右衛門少輔が、
氷上郡黒井の城主赤井直政に攻められ落城した。
上原氏家臣13名は、物部城の見えるこの山中で切腹自刀し、
地元民がこの勇士の冥福を祈り
「十三墓」を建てたと伝えられている。
○ ーーーーーーーーーーーーーーーー 〇
この時、1563年生まれの細川忠興 (明智珠子も) は
齢かぞえの八歳で、
実父の細川藤孝から離れて京都の乳母のもとで
町民として預けられて住んでいます。
藤孝は奥方の(沼田)麝香とともに、足利義政擁立に甲信越へ
奔走しています。
与一郎忠興は、本家細川興元の養子縁組してから、
実際は実父の藤孝のもとで、
初陣を飾るのを急いで、元服を果たすのです。
きっと、そこら辺の生い立ちの複雑さが、
松平元康(のちの徳川家康)に近しいもの感じて、
豊臣よりも徳川方にいち早く味方したんでしょう。。。
ーーー地方の一介の豪族の話を綴ってるのに、
どんどん話がでっかくなって しまいました。。。
でも、「どうする家康❓」でなくとも
誰にでも下剋上に乗っ取って
トップを獲れるチャンスがあったのかもしれませんね。。。
「曾我兄弟の仇討ち」は鎌倉時代の大きな事件。
鎌倉時代を「吾妻鏡」などに綴ったのは、、
徳川幕府が平定してからです。
その時代のトップに都合悪いことは
秘する形で残すのでしょうけど、、、
なので、、、
諸説もろもろの 「細川夫妻の夫婦愛」を
自説でかたるのは、
ほんとに大河なロマンですよねぇ。。。
今、関ケ原合戦の最中の心理戦を
どう表現するのか、試行錯誤ちゅう。
まもなく、第3章も佳境に入ります。