今年、5月の長期休暇は長年訪れたかった信濃国
取り敢えず近世城郭を中心に三日間の計画を立てました。
まずは真田氏十万石の松代城 16Cには海津甲斐武田氏の海津城
残念ながら到着が朝6時で、この後の予定を考えれば9時から開城の本丸へは入れないだろうなと諦め…
二の丸 南門にある再現図 武田氏の城と織豊系のハイブリットやな~
だいたいの縄張は把握していったのですが、現場に行くまでの疑問
「天守台は北東?何故直角でないの?」 まあ、北東の櫓台が一番デカかったから天守台?とおもったのですが。
現地に行くと、北西・戌亥櫓の位置が天守相当であったかなと確信。(画像上の中央右・下の右)
石垣の角度が他に比べ緩い。(時代が古い&重量物があった可能性)
本丸に入れなかったから正確ではないですが、平面規模は16x16m、南東隅が欠けているので短辺を測ると11ⅹ11m
これは諏訪高島城(14m角)や小諸城(11m角)の天守台平面に近いです。
では、北東のもっと広い櫓台は何か?
江戸中期には洪水などによって北側河川の改修が行われて、城の北側も改変があったと思われます。
そのときに北不明門や丑寅の櫓台を改修したのではないかと。
そう思った理由は二枚目の写真の北不明門の石垣。低すぎ!
60㎝だそうです。そして発掘ではこの下で3mの石垣があったとか…。
つまり本丸北側にも堀があったのではないか。
で、改修以前を下記のように想像しました。(図は 調査報告書『松代城』より)
北東のだだっ広い&鋭角の櫓台&南東の櫓台は…
砲台をつくろとしたんじゃあないかな。
あと三枚目の画像、二の丸北西の埋門なのですが、河川城郭と堤防との関係が少しわかった希ガス…
あともひとつ、全然関係ないけど、伊具金山城の埋門もこんなんだったかな…と想像したり。