11月に二週続けて行った 但馬国 宵田城
6日に楽々前城に行こうと 山城守入道殿と行き、そのついでに来た城ですが、あまりに後ろ髪惹かれ翌週にも行くことと相成りましてん。
楽々前城から1.5里、北麓を流れる稲葉川が東から南に流れを変える山塊にあるお城。
この川が果たして自然にこういう流れであったのか気になります。城山の周りをほぼ3/4周しています。自然にしては出来すぎてるなと。
二度目の時はまだ20℃越でアオダイショウ君も居て、強制終了してしまったのですが、来年3月には再訪する予定。
主郭Ⅰの南から西には石を積んだ土塁aが巡り、虎口と思われるb・cにも石積があります。
↑虎口b 草が被っているが結構残っている 右上が鉄塔
aから延びる土塁は肩が落ちているのでもっと幅広であったと考えます。
憶測が許されるのならaに天守建築があり、Cに向けて多聞櫓がありb・cは櫓門だったのではないでしょうか。
また、虎口hは小さいながら枡形状に折れ、jは見事な喰い違いがあります。
↑虎口jの見事な喰い違い通路 人尺は入道さん 右上が破壊塔
あまり情報を取って行かなかったのですが、楽々前城と同じ山名四天王・垣屋氏による築城で、水生合戦前後、羽柴美濃守配下・前野将右衛門が拠る有子山城の支城として機能したようです。
まだ、図面が途中にも拘らずこの城のことを書いたのには訳があって、主郭西寄りと郭Ⅵ西北端にある高圧線塔と南東の鹿島神社から登ってくる道路が遺構を破壊しているのです。
ぼくは内情を聞こうと思い地元・山名城址保存会のT氏にLINEにて問い合わせました。
T氏いわく、塔建設にあたっての発掘調査は行われていないとのこと。郭Ⅵの塔は明らかに土塁を引っ掛けています、ありえない!
さらにアクセス道は郭Ⅶ西まで上がってきているのですが、郭Ⅱまで上がる予定だったらしいです。
しかし、山名城址保存会の西尾会長がそれを制止してくれたとのことでした。もし強行されていたらどうなっていたか、ぞっとします。
西尾先生には厚くお礼申し上げたいです。ありがとうございます!