引越大名記 | 根多帖別冊 by おしろまん

根多帖別冊 by おしろまん

おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

本日は、姫路市民セミナーの日でした。

テーマは 「松平大和守日記」にみる姫路藩主の日々 城郭研究室の工藤茂博先生の講演。

工藤先生の人気もあって通常よりも早めに満席となり多くの立ち見が出る大盛況でした。

 

ちかく公開予定の映画 「引越し大名」 の話を交えて笑いの絶えない九十分。

古くは、杉本苑子氏の短編小説 「引っ越し大名の笑い」 に描かれた、松平大和守直矩。その生涯で五か所の封城を転地します。

 

父、直基からから受け継いだ姫路の地を、幼少ゆえ要衝を任せるに能わずということで越後村上へ。

長じてのち再び姫路へ戻るものの、いとこ越後守光長の改易に連座し、領地半減の上豊後日田へと転じます。

↓大和守の封じられた日田の丸山(永山)城 主郭櫓台の石垣と 古墳時代の横穴式石室

工藤先生は、叔父である一伯 (松平忠直) の例を挙げ当時の豊後に一種流刑地的な意味合いがあったのではといわれました。

上記杉本氏の短編内でも、日田で叔父一伯のことを想う大和守が描かれていましたがどうなんでしょうか?一伯の謹慎した府内と日田では結構距離がありますゆえ。

 

江戸期の初めは大名領国だったがその後天領となり九州天領の中心であった日田にこのときだけ大和守が入封したのも謎です。越前系松平氏という親藩のなかでも長者格の大和守を減知とはいえ動かしたということはその地を江戸が重視していたことになるのではないかと考えます。ところが大名領になると、そこにもとあった天領統括の機能が回らなくなったので、天領に戻した。

こんなところではないでしょうか。大和守日田在任六年と云うのも齟齬が顕在するリアルな年月のように思います。

結局大和守家は日田ののち出羽山形十万石から陸奥白河十五万石へと姫路時代の石高に復し、孫の明矩のとき三度姫路藩へ戻ります。

 

ただ、そののち明矩が没すると幼少藩主ということでまたもや姫路から離れることになります。哀れ大和守家。