昨日、姫路市城郭研究センターの市民セミナーに行って参りました。
『美しき国宝松本城 天守群の構造と保存の歴史』
そのお話自体は大変おもしろく勉強になったわけですが、私個人の興味からあまり近くなかったのでお話を聞きつつ、資料に添付された図を!つらつらと眺めていた時に思ったのですが…
この城って、縄張に幾度かの変遷があったのではないか ということ。
松本市の発刊する『松本城下町復元図』 より
この図をみて、松本城の本丸は、次郭である “二の丸”(上図の黄線) に、北側が接していないにもかかわらず、そちらがエライ出っ張っているということ。
本丸東側塁線と二之丸東が不自然に近くなっていること。
そのうえ、本丸が二之丸・三之丸に比べて不自然に直線的且つ広大であるということ。
それでまず思ったのは北側にも二の丸があって、いわゆる輪郭式だったのではないか、ということ。(それは下記二図を作成中に違うと思った)
ただこの不自然な本丸の広さ (130m×130mくらい) はアヤシイと思い上図を作ってみました。
この時代の織豊系城郭は主郭部が二段に分かれているもの(広島・上田・中津・会津若松など)が多く、また湿地にあったことから濠Gで区画されていた可能性もあるのではないか、と考えました。
濠を埋めて本丸を広げた例は膳所城、帯曲輪や他の曲輪を埋めて殿舎用地を広げた例は江戸城、飫肥城、岡山城などがあります。
Aは天守ですが、天守曲輪があったのかもしれません。あと、鬼門除けもあったんじゃあないかなぁ…
で、上の織豊期想像図を作っているとき、武田期の図も浮かんできました。
松本城って女鳥羽川などの流域に広がる湿地帯に浮かぶ島を利用しています。
一番上の図の黄色ライン (二之丸) とその外の三之丸はたぶん武田期のものでしょう。これに北側の補助線 (赤ライン) を足してみると当時のラインを想像できるのではないか…
二之丸御殿のあった二之丸東側は単独の曲輪であった可能性もあり、丸馬出ももっとあった可能性もあります。
すべてワタクシの妄想ですのでご了承下さい。
ただ試掘の段階で 「兵庫城は複郭」 を言い当てたのは私です。
ぜひ、発掘は無理でも地中レーザー調査くらいはしてもらえませんかねえ…。