崩壊日田郡永山城 | 根多帖別冊 by おしろまん

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絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
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先月起こった、熊本・大分地震

いまだに避難されていたり、日常業務を再開するにに至っていない方々にはお見舞を申し上げるとともに、そんな折にこんな記事を上げることを御赦しいただきたい。

今回の地震で多くの文化財が倒壊の憂き目に遭った。

熊本城の惨状は報道により皆の知るところとなり、早速これからの再建に向けて動き出している。

また、それに隠れてはいるが八代城の被害も報告されている。

大分県内では竹田の騎牟礼城の斜面が崩壊したといい、玖珠・角牟礼城の石垣も崩壊していると聞く。

なんといっても酷いのは日田・丸山 (永山) 城であろう。

慶長五年、関ヶ原において小早川金吾に巻き込まれる形で西軍を裏切った小川土佐守祐忠は、事前の裏切り通告をしていなかったため伊予七万石の封地を没収されたが、先刻述べたように姻戚の一柳氏の嘆願により、の再封という形で豊後日田三万石へ来た。

そこで築いたのがこの丸山城である。日田には半里足らず南に日ノ隈城があったが、前領主毛利伊勢守が預かっていた。

なぜだろう・・・毛利伊勢は同国海部郡佐伯に封地があり、わざわざ近くに新城を築いてまで日ノ隈城を毛利氏が維持する必要を感じないのだが。

小川氏は慶長十五年に無嗣断絶。徳川譜代の石川主殿頭忠総が六万石で入封。代官時代があって天和二年“引っ越し大名”松平大和守直矩が入ったりしているが、概ね日田のまちは九州の天領の中心として機能している。その中心がこの丸山(永山)城であった。

天領代官所は城(三之丸)と花月川の間に営まれていたが、石垣や堀はほぼ領主期と変わっていなかったのではないか。破城の痕が見られない。

天守台

縄張図主郭北はどう見ても天守台といった壇があり、石垣も残っている↑。見事な丸石積である。またその南の主郭南西部は隅部算木積の丸石積の櫓台が残る↓。

通常、廃された城というのはこういった石垣の隅角を破壊するのが普通である。しかしそれが為されていないということは代官所附属の城として一朝事ある場合に利用しようとした、あるいは大名入封の予定があった証と考える。

江戸幕府がこの日田を要地と考えていたということであろう。
また、いまは城域南に濠が残るが、江戸期には岡の全周を廻る堀があったということで、五年程前に北西部で発掘調査が行われ、ここからもこの城に特徴的な丸石を積んだ石垣が見つかったということである。

ということでほぼ完存していたこの主郭西南部の石垣が今回の地震によって崩落したということらしい。

櫓台

上にだらだらと書いたのはこの丸山城がどれだけ貴重であるかを言いたかったのである。ぜひしっかりした調査のうえ、旧状に復してもらいたいと切に願うばかりである。