二月の 利神城調査報告会において
「利神城は、姫路城の支城時代は 『利神城』 ではなく 『平福城』 と呼ばれた可能性がある」
ということを聞いた。
また、平城として住宅地に良好な遺構をとどめる河内私部城は歴史的呼称としては 『交野城』 が正しいと、交野市の担当の方はおっしゃられた。
同じような話を、ゆえあって近頃再読している 『佐柿国吉城ブックレット』 に書いてあった。
若狭国美浜町佐柿にある国吉城は、若狭武田氏が越前朝倉氏に備えるため重臣・粟屋氏に守らせた城で、永禄元亀にかけて十年にわたって朝倉氏の侵攻を喰い止めた堅城である。
また織豊期~江戸前期には若狭の本城である後瀬山(小浜)城の東を護る支城として石垣造りの近世城郭としての改修を受けた。
それらの多様な遺構を明らかにするため国指定史跡を目指して発掘調査が続けられている。
ぼくはここに近年毎年のように訪れて、とても好きな城址のひとつである。
ところがその国吉城が、「国吉城と呼ばれていなかった」 というのである。 いわく、
「国吉という城名は江戸時代以降 『(国吉城)籠城記』 等から流布して定着したと思われ、常国国吉が築いた古城を利用したという由来が著されている。
しかし、当時記された 『信長公記』 等複数史料によれば、地名の 『佐柿』 或いはその当て字で登場する。
以上のことから、当時の城は 『クニヨシ』 ではなく、地名から 『サガキ』 と呼ばれていたとみられる。」
『国吉城籠城記』 は、永禄当時粟屋家中にいた田辺半太夫が体験を軍記物として纏めたものである。
しぜんオモシロくするためのフィクションや誇張が多く史料としての面は乏しいといわれる。
ただ、オモシロいため広く流布したのか、本来の 『佐柿』 という呼称を 『国吉』 が凌駕したようである。
ということでぼくとしては、これからは 『佐柿』 という城名を使っていきたいと思う。
ややこしいので 『佐柿(国吉)城』 くらいにはすることになるかな。