城・和国境の要地、今の木津町に城 (近世城郭) がないことが不思議であった。ぼくならココは絶対城を置くのに、と。何も知らんと。
したがって松永弾正がここに拠点となる城郭を営んだことなど知らずじまいであった。
驚くことにごく最近まで。
ここ数年でこの城の名前を耳にし、縄張図を見たりしたが、何の変哲もない中世城郭であると思った。
ただ、昨年 豊田山城 (山辺郡) や宇陀秋山城を見て、松永弾正の城にみられる特徴を知るにつけ、ここ鹿背山城も見なければと思うようになった。
2月の談話会の前に行ってみようと思い早起きしたがこの日は生憎の雪!
エライ目に遭いましたが、とにかく行ってきました。
例によって予習不足でひとつ奥 (東) の谷を登ってしまい、実際こちらからも登れるらしいのですが、雪のなかでは強行できません。途中までで引き返しましたがもうすでに靴はびっしょり。
やっと本来の登り口である西念寺へ。フリーの縄張図が置いてある。登っていくと水濠?その奥には竪堀も。
![鹿背山大手](https://stat.ameba.jp/user_images/20140613/01/esqi-oyaji/8a/f1/j/o0448033612971353250.jpg?caw=800)
主郭の北側はすごい土木量の畝状空堀やら切岸やら土塁やら…竪堀にも横堀にも見えるし外側は土塁である。
![鹿背山2](https://stat.ameba.jp/user_images/20140613/01/esqi-oyaji/5b/2d/j/o0448033612971353252.jpg?caw=800)
おもうにこの北の主郭部を中心として北向きの曲輪群、それと南東端のⅢ郭と呼ばれる部分、弾正はおもにここに手を入れたのでしょう。
![鹿背山堀切](https://stat.ameba.jp/user_images/20140613/01/esqi-oyaji/20/8c/j/o0448033612971353253.jpg?caw=800)
尾根を断ち切る堀切と帯曲輪で中心曲輪を囲む感じは宇陀秋山城を思わせます。
主郭西とその下の、案内板に 『桝形虎口』 と表現されたところは 堀底道と考えるとほかの松永系城郭と共通に見えてきます。
![鹿背山鳥瞰](https://stat.ameba.jp/user_images/20140613/01/esqi-oyaji/c2/4f/j/o0448032912971353251.jpg?caw=800)