先日の、『歴史秘話皮脂取れや』 で、立花誾千代や吉岡妙麟尼らが、なぜ大友家に?ということを考え、
「大友家のオトコどもがダラシナイんジャ」 と書きましたが、やはりそうでしょう。
司馬大人 『豊後の尼御前』 によると、
「吉岡氏はこういう場合、家老 (おとな) のひとりが籠城の指揮を執ればよくそれがごく普通であった。しかし家老たちはおろおろうろたえるのみの無能ものであったにちがいない。」
だから、城主の母 (諸説あり) が、尼の身で采配を振るわなければならなかった、と書かれています。
しかしさらに、「逃げる」「他の城に合流する」「自害」「降伏する」(してるし) という選択肢もごく普通に行われるのにそれをしなかったことから、やはり彼女自身の苛烈な性格にも原因がある…と分析しています。
あるいは、洗礼を受けていたのではないかとも。
まあ女性が苛烈であるのは、豊後では今でもそうで (笑) 当時は “ゼザベル” 奈多夫人がいたのですから…トップがああであれば下はそれに倣うでしょうね。
前置きが長くなった。
戸次統常の母のことを書こうと思う。
戸次氏はもとは大神氏 (豊後土着の国衆) で、大友氏御連枝から跡継ぎを迎えた同紋衆 (大友氏と同じ杏葉紋を用いる=支族) である。
伯耆守鑑連 (道雪) が、立花城城督となって筑前に行ったので、弟 (鑑方) の子を養子にし、この甥を鎮連と名乗らせ戸次家を継がせる。鎮連は大友家の軍配者・角隈石宗に師事したともいわれる。
ところがかれは、天正の役において薩摩に内応したといわれる。
事実はわからない。一万田宗拶や志賀道益はかれとともに大友義統を諌めているし、かれらも戦後誅されていることから、濡れ衣のような気もするし、ともに見限ったのかもしれない。わかるのはかれら南郡衆の仲の良さである。
ただ、鎮連の嫁 (志賀道益の妹といわれる) は、この夫の反逆 (或いは濡れ衣) に心を痛めたようで、ムスコの統連に、
「戸次家の汚名を雪ぐ為、薩摩軍と戦って参れ」 といい、「後に残る家族の心配を無からしめん」 と、みずからのふたりの幼子を刺し殺し、自らも敵中に飛び込み何人かを刺した後自害した。
オトコらしい・・・しかしそこまでするか?
武家の女性にはこういう行動をとる人をよく聞くが、ある意味武装して実際に戦うより苛烈であるといっていいのではないか。
統連は、父と同じ 『連』 の字を憚り、諱を統常と改め、家宝・家伝の書を焼き200人を率いて戸次川で玉砕する。享年23歳。