今日のタイトルは浜田城。。
昨日の夜はJC(青年会議所)の3月例会があり、その際に市役所の教育委員会の方にお越し頂いて、浜田藩の起こりから幕末までの話を聞かせてもらいました。
浜田にお城があったというのは皆さん知っていることかと思いますが・・・
僕が小さい頃、父親から聞いていた浜田の殿さんの話はいつもこうでした。
「浜田の殿さんは自分の城を焼いて逃げたんだけ~つまりゃ~せん。」と
この言葉だけがずっと頭にあり、なぜ自焼退城をしたのか?幕末の動乱期に浜田藩はどう動いていたのか?
背景も知らずに次の世代に語り継いでいくのはあまりにも無責任ですよね。
ですが、浜田の歴史を正確に認識して語り継いでる方も中にはおられるかと思いますが、多くの人はそんな理由も知らない人が多いんではないでしょうか?自分も2年前に出された「浜田城燃ゆ」という本を読むまでは全く知りもしませんでした・・・
昨日の話をここで紹介したい所ですが、かなり深い内容で書ききれないくらいですので簡単に紹介させてもらいます。
浜田藩の最後の藩主は「松平右近将監武聡」(まつだいらうこんしょうげんたけあきら)という人で、徳川15代将軍慶喜の実弟でした。第2次長州征伐で浜田に長州軍が来た際には、この武聡というお殿様は重い病気にかかっており、陣頭で指揮がとれる状態ではなかったそうです。
お殿様がこんな状態の中、尾関隼人(おぜきはやと)という家臣が浜田藩820名の兵士の陣頭指揮をとって長州軍1000名に対して、奮戦したそうです。ですが、兵力数で僅かな差の浜田藩士も長州軍を撃退できると思い士気も高かったようですが、備えている武器の差により大敗を喫してしまいました。
1866年7月13日内村の戦
1866年7月15日大麻山の戦
1866年7月16日周布の戦
1866年7月18日自焼退城後、松江に一時撤退。同年9月3日に再度浜田の地を奪い返すために計画を立てるが、時の孝明天皇の死去、長州征伐の停止勅命が下り計画は実行できず。
1867年に鶴田(岡山県久米町)へ武聡と家臣とその家族3500人が美作鶴田に移る。
1882年に武聡は41歳で死去。
浜田城を自焼した理由としては城下町を戦火に巻き込まない事と、9月3日に再度奪い返す計画があっての退城だったので自焼をしたそうです。
とかなりざっとですが・・・まだ他にも色々な人が関わっての話です。
こどもの頃に聞いてきた「つまりゃ~せん」とこの一言で語るには、この時代に浜田を一生懸命守ろうとした人たちに対してあまりにも酷な話です。
正確な歴史を認識して次代につなげていかないといけないと思います。