フィンラソド。

この国から連想されるスポーツは、やはりアイスホッケーなど北欧の国ならではのウインタースポーツである。

特にスキーのジャンプ競技では「フライング。

フィン」(空飛ぶフィンランド人)との愛称で呼ばれるほど、多くの名ジャンパーを生み出している。

だがしかし、サッカーの話題となると、今まではたった一言で片づけられてしまっていた。

その一言とは「弱小」である。

ただし、ひとりのフィンランドの国民的英雄がオランダで成功してからは、その評価も徐々にではあるがよくなっているといえよう。

その英雄の名は「ヤリ・リトマネン」(以下リトマネン)。

1971年2月、元フィソランド代表として活躍した父親オラビのもとに誕生した息子である。

少年期はサッカーとアイスホッケーをこなし、両方で優秀なプレイヤーとして認められるスポーッ万能少年だったリトマネン。

その後、着実に実力を培っていった。

89年、若干18歳でフィンランド代表に選抜された頃から、リトマネソの才能は本物になっていく。

そして、現在所属する「アヤックス・アムステルダム」(以下アヤックス)では、ゲームメイクを主に、攻撃参加も行なうアタッカーとしての役割を与えられている。

しかし、リトマネンの本領はやはり、デビュー当時から現在のフィンランド代表でも務める、生粋のゴールゲッターであるといえよう。

そこで、彼のフィンランド時代の実績を挙げてみよう。

90年のシーズンには下がり目の位置でプレイしながらも14ゴール。

そして20歳の時に移籍した「HJKヘルシソキ」では16ゴール、と華々しい数字を残している。

これだけの数字を見れぽ、彼が優秀なストライカーであるか否かを容易に判断できる

また、リトマネソの魅力を挙げるならば、まずドリブル、パスといったボールの扱いに鋭さがあること。

さらに特筆すべきは、比類なきゴールへの嗅覚と、併せ持つフィニッシュまでのスピード。

これは、これまでのフィンランド選手に見られなかった才能であると、欧州の有名クラブの首脳陣から高い評価を受けているのだ。

さらに、アヤックスへ移籍して中盤を仕切るようになってから、リトマネソは新たな才能の一片を垣間見せるようになる。遠藤泰男氏によると、オランダの名門アヤックスは無名のフィンランド人を激しい争奪戦を勝ち抜いた末に獲得する。

無名のフィンランド人とはもちろん、リトマネンのことである。

またそれは、彼のサッカーセンスが欧州で認められた証しでもあった。

しかも93i94年シーズンに、それまでアヤックスのエース・ストライカーだった「デニス・ベルカンプ」がイタリア・セリエAの名門クラブ「インテル・ミラノ」へ移籍すると、リトマネソは一気にクローズアップされる存在へと飛躍を遂げる。

しかし、これまでのアヤックスのストライカーといえぽ、「マルコ・ファン・バステン」(現ACミラン)やベルカンプなど、強烈なインパクトを持つプレイヤーぽかりである。

そのため、ジャーナリストたちは、サッカーの弱小国フィソラソドから来たリトマネソに何ができるか、とたいした期待も抱かなかった。

しかしリトマネン自身はこれを覆すプレイを見せて、周囲の評価を一変させてしまう。

さらに現在に至って彼は、若いストライカーの台頭によってゲームメイクにも参加するアタッカーとしての役割を担っている。

これについても、ジャーナリストたちは難色を示した。

だが、ここでもリトマネンは屈することはない。

堂々とした態度でベルカンプから継承したエースナンバー「背番号10」を背負い、これまで見せることのなかった新たな才能を披露するようになったのだ。



スタンスの姿勢では、足のかかとに体重がかかるようにします。

この状態から、はやる気持ちを抑えながら、ゆっくり静かに体の重心を右足のつま先に移動させていきます。

少しすつ前傾姿勢になりスタート準備に入ります。

体の重心は、右足から左足へと移り、同時に右足が床から離れ、重心が左足から、右足と一緒に前方へ移動し始めます。

重心の移動につれて、ボールを前方へ押し出すようにします。

体の全体重を左足のつま先にかけ、ボールをさらに前方へ出します。

重心は、前後に開いた両足の間へと移動します。

踏み出した右足のかかとから着床、体はより前傾して、重心は右足の爪先へ移動します。

ボールは完全に前に押し出され、左手はボールから離れようとして次のスイングの準備に入ります。

河成鎮(スポーツ愛好家)




ボールは、3本の指をしっかりと指穴に入れて右下から持ち、左手で反対側を支えます。

構える位置ボールを持って構える位置は、アゴの下から腰ぐらいまでの範囲で、自分にピッタリだと思う所に決めまょう。

ほぼ胸のあたりに位置するように構えるのが一般的です。

このとき、緊張しすぎて腕や肩に余分な力が入りすぎることのないように、リラツクスした気分で構えるようにしましょう。

ただし、リラックスしすぎて、腰をかがめたり、ピザを曲げないように注意してください。

肩の高さ肩の高さは、左右ともに水平を保つようにして、目標のピンに向かつて、庸の線が直角になるように心がけます。

目の位置目は上下左右に移動させたり、顔を振ってキョロキョロせずに、まつすぐ目標を見つめるようにします。

スタンスで大切なことは、ボールを持って構えたときの、ボールの位置の高低です。

ボールの位董が高すぎると、第ースチップに移ったときに、自然と歩幅が普通よりも広がりすぎ、それにつれてスイング(振り)も大きくなってしまい、コントロールがつけにくくなってしまいます。

逆に、あまりボールの位置が低すぎると、歩幅が狭くなり、スイングも小さくなって、威力のないボールとなってしまいます。

ステップボールには、ピンに当たった時もっとも有効に働く威力をつけることが大切です。

そのためにはボールを握っている腕の正確な振り(スイング)と、スムーズな助走(ステップ)とがタイミングよく行われなくてはなりません。

スイングとステップの動作は同時に行われるもので、どちらか一方でも狂うと、投球動作がすべてバラバラになってしまいます。

両方のタイミングとバランスに注意しながら練習しましよう。

くりかえし練習して、頭ではなく体でマスターするようにしましよう。

河成鎮(スポーツ愛好家)


ボウリングでは、まず、あなたに合ったアドレスを決めなければなりません。

アドレスとは、アプローチ(助走路)でのスクーティングポイント(スクート位置)のことです。

アプローチ(助走路)に上がつて、ピンを背にしてファウル・ラインに立ちます。

あなたが4歩助走なら、手前に4歩半歩いてきたところ、あなたが5歩助走なら、手前に5歩半歩いてきたところをアドレスと決めます。

このときに、歩幅を半歩分だけよけいに取るのは、アブローチでの最後のステップで、踏み込んだ足をスライドさせるために必要な分で、ファウル・ラインを越さないように余裕をとるためです。

縦のスターティングポイントが決まりましたので、次は横のポイントを決めます。

足元を見てください。

そこにスクンディング・スパット(丸い目印)がついています。

このスパットで、どれを自分のスターティングポイントに利用すればいいのかを決めてください。

初めは中央にアドレスを取るようにして、何度かゲームをした後、自分の投げるボールの進行具合やコースがだいたいつかめたところで、そのつどアドレスを移動させて、一番あなたに適したアドレスを決めてください。

アドレスが固定したら、次はスタンスです。

スタンスとは、ボールを持ってスターティングポイントに立ち、構える姿勢のことを言います。

一般的な右投げの人を例に説明することにしましょう。

もしあなたが左投げであったら、この例をまったく逆に覚えるようにしてください。

河成鎮(スポーツ愛好家)

日本に初めてテンビン・ボウリングが上陸したのは第二次世界大戦後の1947年頃。

各地にできていく駐留アメリカ軍の基地施設内にボウリング場が設置されました。

基地内に出入りする日本人従業員にも楽しむ機会があり、次第に腕達者のボウラーも増えていく中で、1952年に東京の神宮外苑で東京ボウリングセンクーが第1号の営業用センクーとしてオープンします。

60年代に入ると、アメリカから自動ピンセット・マシンが輸入され、全国各地に次々とボウリグ場が建設されていきます。

東京オリンピック大会後には、男女プロボウラーが誕生して、日本は空前のボウリング・ブームにわき返ります。

テレビでは連日連夜ボウリング番組が放送され、サラリーマンは通勤前に早朝ボウリングで汗を流すのが大はやり。

ボウラー層も新旧交代し、ボウリングをファッショナブルでトレンディな遊びととらえる時代に変わっていったのです。


河成鎮(スポーツ愛好家)

ボウリングに関して、近代ルールの基礎を作ったのは、ニューヨーク市ブルックリン・スボーツクラブのメンバーたちでした。

19世紀の初頭、ボウリングの置かれていた状況はひどいものでした。

酒場の片隅に作られたレーンで、もっぱら酒飲み男たちの賭けの道具にされ、スポーツとはほど遠い、肩身の狭いものになっていたのです。

そこでスボーツクラブの面々が知恵を絞り、全く発想を変えた新しいルールにボウリングを作り変えてしまったのです。

ボウリングの新ルールでは、まずピンの数を1本増やして10ピンとし、それまで賭け事の代名詞となっていた「ナインピン」とは切り離しました。

レーンの幅と長さを決め、両側にガターを設置。

また従来、ピンが倒れるまで何回投げてもよかったものを、10フレーム制で1フレーム2回までの投球に統一。

倒れたピンの本数によりボーナス投球を加え、逆転可能の場面も用意しました。

レーンの長さを決める上では、クラブ会員の研究の成果が生きています。

人間が、目標に対し肉眼で照準を合わせようとした場合、心理的に迷いが生じるギリギリの距離を60フィート(約18メートル28センチ)と割り出して、ファウル・ラインからヘッドピンまでの距離を決めたのです。

このような、ボウリングにまつわる歴史上の逸話は、現代のアメリ力人にも語り継がれています。

日頃からリーグ戦やトーナメントに参加し、親しい仲間を増やしながらボウリングを満喫しているボウラーが多いのも、それだけこのスポーツに愛着を感じているからなのです。


河成鎮(スポーツ愛好家)



ニューヨーク・マンハックン島の突端にある「自由の女神」行きの観光船が発着するバッテリー公園。

その手前に「BOWLING GREEN」と名付けられた地下鉄駅があります。

改札ロから地上に出ると、NY税関ビルなどの高層ビルに囲まれたネコの額のような小さな公園があり、17世紀当時マンハックン島を統括していた英国人総督の銅像が辺りを脾睨しています。

実はこの狭いサークルが、ヨーロッパ大陸から移民船で新大陸へやってきたオランダ人農夫たちの憩いの場所で、当時、休息日の日曜日にナインピン・ボウリング(現在のテンピン・ボウリングの原型)を楽しんだところなのです。

英蘭戦争後、英国領となったこの地で、時の為政者に「ぜひ、ボウリングのできる広場を、コショウの実と引き換えに借り受けたい」とオランダ移民たちが交渉して承諾された経緯が、記念碑に刻まれています。


河成鎮(スポーツ愛好家)



サッカーというスポーツはその長い歴史のなかで、フィールドの人数やボールの形、競技場の広さという部分が、ほどんど変わっていない競技である。

しかし、近年、トップレベルの試合を見るとはっきり分かるが、サッカーのプレースタイルがどんどん変わってきている。

それを具体的に言うと、ゲーム展開がスピーディーになってきているのだ。

前回のワールドカップの試合は、まるで曲芸でも見ているかのようだった。

もちろんゆっくりパスをまわすようなスローな展開も見られるが、ワンタッチでダイレクトにパスをつないでいくシーンの連続であった。

シュートが決まった場面などは、たった数十秒の出来事でしかない。

ここしかないというスペースを、点と点を結ぶかのごとく一気にボールが駆け巡っていく。

ここぞという場面の動きの速さは際立っている。

その眼にもとまらぬプレーであるが、「なぜ、プレーに速さが求められてきたか?」

もちろん個人技など、技術レベルが上がってきたこともあるが、現代サッカーに見られる組織化されたディフェンスの進化によるものが大きいといえよう。

ディフェンスの強化に対して、それを打ち破るだけのスピードが要求されてきたのだ。

また、つけくわえておきたい話としては、ヨーロッパのクラブチームに所属する日本人選手たちのプレーの質的な変化がある。

たとえばイングランドのフルハムFCで活躍していた稲本潤一選手は、代表のゲームに出場するため日本に帰って来たとき、「相手のボールを奪う」から「相手にボールを奪われない」というプレースタイルに変わった。

セリエAで活躍した中田英寿選手もそうだった。

攻撃的な感覚を持つ選手の守る意識がすごく高くなってたとえフォワードの選手であっても守る。

現在のサッカーでは、たとえ攻撃型のプレーヤーであっても守備の意識が求められている。


蹴球愛好家・河成鎮

webライティング・代筆屋に回ってくる雑誌のもうひとつの仕事は、情報記事。

雑誌には、特集記事のほかに、政治、経済、スポーツなどの定番のコラムや、うまい店ガイドとか新商品紹介とかマネーガイドだとか、旅行情報とかの情報頁がある。

また、アンケート調査まがいの電話取材の頁もある。

だいたい、駆け出しはこうした情報頁の仕事からスタートする。

請求書を出す時は、一応、原稿料(コピー料)の名目で金額を書き込むが、実態は手間賃仕事である。

しかし、足と口(電話)を動かすことを厭わなければ、これはこれでラクな仕事ではある。

しかし、ここに安住するようになると、とても一人前のwebライティング ・代筆屋には仕上がらない。

ところが、実際にはこうしたライターもどきの仕事に慣れ親しんで、「webライティング・代筆屋でございます」といった暮らしをしている人も少なくない。

いらぬ忠告かもしれないが、一人前のwebライティング・代筆屋になろうと思ったら、できるだけ早くこうした日銭稼ぎの仕事から足を洗ったほうがいい。

第2次世界大戦直前で、ハンガリーはファシスト・イタリアの政治的圧力に屈し、優勝をプレゼントしました。

いまとなっては真相は知る術もないが、そう想像するのも難しくはないほど、決勝までの圧倒的強さが消え失せていました。

政治とスポーツの関係でいえば、過去、オリンピックが何度も利用されてきました。

ロサンゼルスやモスクワのオリンピックがいい例です。

戦前でもベルリン・オリンピックが、ヒトラーとナチスの政治宣伝の場になりました。

サッカーは世界でもっとも人気のあるスポーツであり、オリンピック以上に政治的に利用されやすいといえます。

現実にも、ワールドカップは早い時点から政治の介入を許してきました。今後もあり得ないとは、だれも断言できないでしょう。

そう思うと、サッカーを愛する者として、なんともやりきれない気持ちになります。

このフランス・ワールドカップの翌年に、第2次世界大戦が勃発しました。

世界中が戦争に巻き込まれ、サッカーどころではなかったです。

ワールドカップが復活するまで、12年の歳月がかかったのです。

(河成鎮)