一昨日、長年の同士とも言える電撃ネットワークの三五十五さんが亡くなった。


昔、同じ事務所で営業で各地を回ったのでいろいろな思い出があります。



日記を見てみました。



1993年2月18日か19日、電撃ネットワークのリーダー南部虎弾さんから

電撃ネットワークのメンバーにならないかと誘いがあり

O.I,T事務所に面接に。当初電撃のメンバーになる予定でした。

しかし、エスパー伊東が電撃メンバーになることに賛成したのは南部さんだけで、あとの3人は反対しました。


というわけでタレントは電撃とエスパーに。事務所所属に。


翌日、東京タワーボウリング場にて「電撃ネットワークファンの集い」に行く。電撃さんはファンクラブがありました。

事務所には電撃=TOKYO SHOCK BOYSの記事が掲載された海外の新聞・雑誌が約50センチの高さにうず高く積まれていました。

当時バイト生活が主の私とかなり格差がついていました。

その年、電撃さんの前座で学園祭を35か所回りました。



四人のメンバーにとけ込めたかというと

年齢では2つ学年では一級下の三五さんと合わなくて半年一年は口ききませんでした。


各地でエピソードをつくり笑われ、面白い奴ということで

三五さんと口をきくようになり、三五さんは私に「これ親父の形見だからとカジュアルなスーツをくれました。たまに着たり今でも大切にしています。


そんな事務所でしたが、社長兄弟の金遣いがハンパじゃなくたくさん御馳走になったのは良いけれど

倒産し、1994年11月再びフリーになりました。

事務所が別々になっても電撃さんたちとは交流し



まさか三五十五さんが肺ガンで亡くなるなんて。

お見舞いに行くと体調が良くなるように足裏マッサージを30分以上しました。

薬の副作用による全身の痒みが何よりつらく足裏を強く圧している間は気が紛れるらしくよろこんでいました。

2月から面会謝絶になりました。

今年1月10日お見舞いに行ってそのときはよくしゃべり食欲もあったのが最後の別れになるとは。

悲しいです。