今から20年くらい前の話。





エスパーが車を運転して友人と関西へ行った。





大阪、京都、奈良など大阪城、京都御所、東大寺、法隆寺など歴史的建造物を10カ所くらい巡った。





帰り道、琵琶湖畔を通って彦根城へ。石田光成の佐和山城に居城していた井伊直継が




徳川家康の命を受けて築城した城だ。





帰り道、関ケ原合戦場跡で車の中で一泊。





豊臣秀吉が死期が近付き後継者を秀頼にしたが





豊臣政権をめぐって武将同士が対立。





西軍の大将は毛利輝元だが実際の指揮は石田光成であった。




東軍大将は徳川家康。日本中の大名のほとんどが東西の軍のどちらかについた。




当初は石田光成の西軍が人数的に優勢だったが、東軍に寝返る者が次ノマとあらわれ東軍家康の形勢がよくなった。





徳川家康は筆まめであったため、多くの大名に味方になるように文を出したのが功を奏したのだ。





慶長5(1600)年10月、関ケ原で東西軍が激突した。総勢20万人。死者8千人。




そういう歴史的いわくの場所なので、車のシートを倒して眠ろうとしたが眠れず、明け方合戦場跡は霧がかってきて武者の霊でもでそうで大変恐かった。





関ケ原の合戦ではよく知られているとおり東軍徳川家康の圧勝であった。





話を豊臣秀吉な戻し・・・




豊臣秀吉の九州征伐のときついて行ったのが、伊東祐兵であった。





伊東氏は宮崎県の飫肥城(舞鶴城)の城主となった。




島津氏と伊東氏は争い、歴史上まれな90年戦争がつづき、伊東氏が飫肥城を守りきり、明治まで存続した。




エスパーの伊東家の祖先なので一度は飫肥城を見てみたい。





あと、何年か前の夏、板橋の近藤勇碑の石の長椅子に寝転がり一晩眠った。





多摩の百姓から侍になった近藤勇と新選組を崇拝しているからだ。





これからもエスパーの歴史探訪はまだまだつづく・・・




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