法学セミナー2012年3月号

http://nippyo.co.jp/magazine/5791.html


【最終回】刑事訴訟法入門 23/緑 大輔
刑事訴訟法と学説――「学説」を学ぶ意味をめぐって

北海道大学の緑先生が、刑事訴訟法と学説の関係について、論じられています。

研究者にありがちな、「法科大学院生・司法試験受験生は、判例べったりでけしからん」という説教ではなくて、慎重に学説を学ぶ意義を論じようとされています。この姿勢は好感を持てました。


緑先生がこのような記事を連載の最終回に書いたのは、やはり「判例・捜査実務べったりの勉強姿勢はやめて欲しい」というメッセージが含まれているんだろうと思います。


ただ、皮肉な言い方をすれば、緑先生の連載をわざわざ読むような人は、「刑訴は判例・捜査実務だけ学べばいいんだ」というスタンスの人ではないように思いますが。


さらに、実際に受験生の答案を採点する、試験委員の採点実感等を見ると、「もっと判例を深く勉強して欲しい」というメッセージが出ており、法科大学院生や受験生は、むしろそちらの方に力点を置くべきではないか、と思うわけです。


例えば、憲法の試験委員は、今年の採点実感で、

http://www.moj.go.jp/content/000082799.pdf


「内容的には,判例の言及,引用がなされない(少なくともそれを想起したり,念頭に置いたりしていない)答案が多いことに驚かされる。答案構成の段階では,重要ないし基本判例を想起しても,それを上手に持ち込み,論述ないし主張することができないとしたら,判例を学んでいる意味・意義が失われてしまう」


と述べており、判例の理解が答案に示されていないことに、不満をもたれています。


あと、法科大学院生や受験生が、判例・実務べったりと言うわけでなく、むしろ特定の学説に、無意識のうちに引きづられている面も強いように思います。


例えば、逮捕に基づく捜索・差押え(220条)。

多くの受験生は、緊急処分説で書くわけですが、判例の立場はそうではないはずです(最判昭和36年6月7日参照)。

そもそも、逮捕に基づく捜索・差押えに関する事例問題において、220条の文言(「逮捕する場合」、「必要があるとき」)から離れて、いきなり法的性質を論じるのは、正しい思考方法とは思えません。


また、(現行)民法でも、売買契約の担保責任(特に瑕疵担保責任。570条)について、実務はあたかも純粋な法定責任説かのように理解されている方も多いのですが、個別の判例を見ていますと、不特定物に一定の要件の下で、瑕疵担保責任の適用を認め(最判昭和36年12月15日)、また、(純粋な法定責任説からは認められる余地がないとされる)履行利益賠償についても、数量指示売買の事案で、認められる余地はあると示しており(最判昭和57年1月21日)、判例の立場は一概にいえません。


ここからは全くの推測で、責任は持てないのですが、瑕疵担保責任についての事例問題が、新司法試験で出題された場合(なお、第2回新司法試験民事系)、「瑕疵担保責任→法定責任説→不特定物は適用外、信頼利益賠償のみ→あてはめ」と一刀両断する答案でも、不合格にならないとは思います(多くの受験生がそう書くから)が、必要に応じて、例えば不特定物への瑕疵担保責任の適用の可否が問題になっている事案では、前掲の昭和36年を引用し、履行利益賠償の有無が論点になっている事案では、昭和57年の判例を引きつつ、事案との関係で考えている答案の方が、高得点がつくような気もしています。


また今年の民事系第1問では、転用物訴権が出ているわけですが、肯定説と否定説の対立を延々と書くよりも、やはり昭和45年(ブルドーザー事件)と平成7年(ビル改修事件)の2つの判例の理解を示した上で、本件事案ではどうなるのか、ということを問うていたように思います。それが出来ていれば、学説上の有力説である転用物訴権否定説にあいさつしなくても、相当な高得点がついたように思います(あくまで推測ですが)。


色々と書いてきたわけですが、私としては、法学部や法科大学院生、司法試験受験生は、「学説軽視」と言われる覚悟で、条文と判例を学び、理解することを最優先すべきだと思います。もちろん、ここで言う「判例を学ぶ」というのは、単に判例の存在を、判例六法や予備校が出している択一六法の類で知っているだけではなく、判例がどのような事実関係の下で示されたものなのか、類似の事案が出題された場合に、それが判例が妥当する場合なのか、それとも妥当しない場合なのかを見極める力を身につける程度までに、学習することだと考えています。


もちろん、余力があれば(判例・実務に批判的な)学説に手を出してもよいと思います。しかし、法学部・法科大学院の限られた時間の中では、条文と判例を理解することで、時間切れになってしまうのではないかと思います。特に最近は、年々のように、新たな立法(会社法)や法改正があり、条文は増え(しかも、精密に作られている)、また、判例は次から次へと出てくる(百選がずっと刊行されているからといって、各科目100個だけ判例を理解すればよいものではありません)わけで、条文と判例をしっかり理解するだけでも、大変な時代になったと思っています。昔は条文も少なくて、判例も少なく、学説が自由に論じる余地が広かったですが、今は条文も判例も出てくる中で、自由に論じにくくなっている気がします(時の経過の必然ですが)。比喩的に言えば、パズルのピースが少しずつ埋められつつあるようなイメージでしょうか。緑先生の記事では、学説の重要性を主張する見解を引用しているわけですが、それはいずれも昔の世代の方々によるもので、今の時代(条文・判例が多数ある時代)に、そのままま当てはめることができないようとも思います。


司法試験受験生に、どうしてもに既存の条文・判例を批判する力を問いたいのであれば、それこそ既存の条文・判例を批判させるような問題を司法試験で出題をするしかありません。しかし、司法試験が必ずしもそうなっていないのは、やはり出題者が、「司法研修所に入所したいのであれば、既存の条文・判例をしっかり理解して、それを具体的事実の下で、使いこなせる力を、まずは身につけてほしい」というメッセージがあるからなのでは、と推測しています