中野貞一郎「I MOYLE IN LAW-『民事裁判入門』の「あとがき」に代えて」書斎の窓2003年3月号10頁以下。

「五〇年前、私が初めて大学の教壇に立ったとき、長老の教授は、このように諭された。『講義を聴いている学生がその場ですぐに理解できるような講義はダメなんだ』と。その日の講義を聴いた学生が、講義を聴いたあとでノートを読み返し教科書を読んで考え、そこでやった理解できる、というような講義をしなければならない、というのである。オーソドックスな大学の理念からすれば、それが本当であったのかもしれない。しかし、それには甚だしく違和感をもった。私が自分の講義のお手本とし、一歩でも近付きたいと念じてきたのは、我妻栄先生の講義である。

 いまでも尊敬してやまない恩師我妻栄先生から、二年間で民法全編を通しての講義を受けることができた(一九四六年・一九四七年)のは、一生の幸せであったと思う。先生の講義は、きわめて明快で、とても分かりやすかった。『太郎ベェが』『太郎ベェが』などと連発しながら卑近な例を次々に挙げて明快に要点を説明される。先生がちょうど完成されたばかりの『民法大意』の序文にあるように、僅少な時間で効率的に『実生活に即した民法の作用的な意義を理解させる』ことが目的とされ、『理解させる』ことに格別の熱意が注がれていたように思う。人に教えることが本当にお好きで、むずかしいことを明快に説明してそれをわからせることに非常に興味をもっておられたという先生の名著『民法案内』(全一〇巻)の1《私法への道しるべ》の冒頭は、『法律を学ぶには、暗記しないで理解しなければならない』という表題の文章で始まり、その劈頭に『法律は理解すべきもの』という見出しが掲げられている。

 学生に『理解させる』には、正確な『五万分の一の地図』よりも、観光案内所のような『名所案内の地図』の方がよい、という我妻先生のお考え(『民法案内』1「はしがき」)は、示唆に富む。名所案内の地図なら、それを手に自分で歩いていけるのである。いまの大学では、地図をもたずに実社会に出ていく学生のことを考えず、細部に及ぶ正確に固執し、理論的な高みを誇り、徒に斬新を衒う講義が多いのではないだろうか。

 晩年の我妻先生が『日本の大学の先生たちは裁判制度を学問の中にとり入れていない』と批判し、『日本の先生は学問的にすぎる。自分が教えた者が社会に出て、法律をどう運用するかということに余りにも無関心すぎたと思われる。たとえば、「・・・の点に関し学説が五つある云々」などとむずかしいことを言う。私がやめて十年間に大分先生方の態度はかわったといわれますが、まだ頭だけで理解し、体では理解していないのではないか。先生方は、行政、司法にたずさわる人々と協力し合い、大学教育を考えなおしてみる必要があると思う』と述べておられた(東大法律相談所雑誌一四号・昭和四〇年)のを、深い感銘とともに想起する」


※なお、MOYLEという言葉は辞書に載っていないので注意。