なるほど、と思った論説です。


高橋和之「違憲判断の基準、その変遷と現状」自由と正義60巻7号98頁以下


アメリカ流の2段階審査と、ドイツ流の3段階審査の違い、審査基準論といわゆる裸の利益衡量論との違い、審査基準論における審査度合いの違いなどが分かりやすく説明されています。これらは意外に代表的な教科書にはっきりと書かれていないことです。弁護士向けの講演録をまとめたものですが、むしろ学習者にとって有益なものと思われます。高橋先生は、芦部先生のラインですから、(多くの学習者が使用していると思われる)芦部先生や4人組の教科書で勉強されている方が読んでも、違和感はないと思います。


以下、引用

「重要なこと、理解してもらいたいことは、なぜそういう3つの厳格度の違う基準が設定されているかという点です。それは『失われる人権の利益』と均衡するような『得られる利益』かどうかを判断するためというこです。あくまでも議論は失われる人権の方から出発している。つまりどの基準を採用するか、3つに分けたどの基準を適用するかという場合の振り分けを考えるときは、そこで制限されている人権が憲法構造からいってどの程度重要なものかということによって、振り分けているということです。

 猿払事件の問題点ですが、猿払最高裁判決が今説明した審査基準論に似た議論をしているものですから、アメリカの議論を導入して書かれたものだと誤解している人もいますけれども、そうではなくて、むしろ出発点は公益、政府の利益の方から出発して基準を振り分ける考え方が背後にある。特に調査官をされた香城さんの考え方では、公益が大きければ大きいほど審査基準は緩やかでいいとされている。大きな公益なのに、厳格な審査したら、その公益は実現できませんよという形の議論になっています」(同誌110頁)

※アンダーライン、強調はESP。


審査基準論と、判例の考え方には根本的な考え方の違いがあることが、明確に指摘されています。

そして最終的に高橋先生は、アメリカ流の審査基準論をとるべきだ、それが法の支配の要請だ、と主張されています(114頁)。非常に説得力のある論説でした。あと、学説上批判されている猿払判決が、実務、学説共に、未だに大きな影響力を有していることも痛感しました。論説における高橋先生の偉大さを感じると共に、猿払判決の担当調査官であった香城先生(元判事と言うべきか?元調査官と言うべきか?)の偉大さを感じます。


なお、私自身はドイツ流の比例原則的な考え方がよいのではないか、と考えております。憲法問題を考えるにあたって、審査基準の枠ではめることができるのか、柔軟性を欠けるのではないか、と思います。と言うのも、審査基準の設定で、もう結論が出てしまうきらいがあるからです。合理性の基準で違憲になることほとんどありませんし、厳格な審査基準で、合憲となる場合がないような気がするのです。それが果たして基準と言えるのか疑問なのです。これに対して、ドイツ流の考え方の方が、様々な要素を考慮することができて、事案に即したきめ細かい判断ができると思います。しかし、審査基準論を推奨する論者はまさに私がメリットと考えていることをデメリットと感じ、デメリットをメリットと感じているので、なかなか決着がつかない問題だろうと思います。


ただ、いざ憲法の試験を解くということを考えた場合は、立場決定は必要だと思います。具体的には、判例で行くか、芦部・佐藤ラインの審査基準で行くか、それともドイツの考え方を大いに参考にした石川健治ラインで行くか、ということです。もちろん、政教分離は判例、表現の自由は芦部説、のように事案によって変わる可能性がありますが、おおまかなところは決めておかないと、時間制約のある試験場で混乱してしまい、時間不足に陥る危険があるからです。