ひろ江が時間の概念をもたないことは、前項で述べましたが、この項ではひろ江の最優先事項であるルーティンについて述べます。
ひろ江とルーティン
ひろ江の生活においては、ルーティンが最優先事項である。
急ぎの用事が無くても、直近のルーティンを終えるために、いつも急いでいる。
ほぼ定型化された日課を毎日繰り返し、定型から外れることは無い。
ルーティンから外れないので、ひろ江の人生には登場人物が居ない。
近年(この30年程)、ひろ江は下記の定型を繰り返している。
1. 起床
2. 朝食
3. 洗濯
4. 昼食
5. スーパーへ買い物
6. 夕食
7. プール
8. 就寝
2が終わったら、3のために急ぐ。3が終わったら4の為に急ぐ。4が終わったら5の為に~・・・という具合に、常に急いでいる。今この瞬間を大切にするという発想がない。
ある春先、飼っていた愛犬のコータが老衰で死ぬ間際のことである。
コータは死期が近く、日中ほとんど横になって過ごしていた。
ひろ江がルーティン7(プール)へ向かおうとしたところ、コータは突如、追いかけてきた。
ひろ江の前まで来るとバッタリと倒れた。
おそらく最後の力を振り絞って追いかけてきたのだろう。
ひろ江は愛犬を玄関のタタキまで運び、そこへ寝かせた。
そのまま息を引き取るであろう愛犬を残して、ルーティン7へ向かった。
ひろ江がルーティン7から帰ると、案の定、愛犬は息をひきとっていた。
「プールから帰ってきたら、死んでいた。」とひろ江は話し、さすがに悲しんでいた。
ひろ江はコータを心から可愛がり、いつも一緒に過ごしていた。
それにも関わらず、愛犬の死ぬ間際、息を引き取る瞬間に看取らない理由が不明である。
プールは明日も明後日も、土日も祝日も不休である。
又、ひろ江は毎日プールへ行くが、そこには目的がない。
水泳をマスターする目的はなく、インストラクターを目指すわけでもない。
「泳いで帰ってくれば、疲れて寝るだけだから楽だ」と話す。
それでも尚、愛犬の看取りよりもルーティン7(プール)を選択する。
このように、ひろ江がルーティン以外を選択することは先ず無い。
愛犬の例は一つの事例に過ぎず、万事において同様である。
ひろ江と育児
子育てをしていた際は、子供をもルーティン内に収めようとしていた。
子供の成長は早く、日々刻々と変化していく。
クラスが変われば友人も変わり、興味の対象も変わり、新しい事に関心をもつ。
心身の成長が早く、日々、アップデートしていく。
子供はルーティンとは対極にある。
ひろ江は、子供の変化も望まず無理やりに定型にはめようとする。
新しい情報を得ないようにTVを見せず、友人と遊ぶのを反対する。
子供が居間に居ることを望まず、子供部屋に入れておくことを望む
(変化が何も無い状態をひろ江は望んでいる)。
子供部屋に閉じ込めている間、何もアップデートが無いとひろ江は考える。
当時は、第2次ベビーブーマーが多く、町内に同じ年齢の子供達が沢山いた。
おなじ保育園~中学校へ通うため、親同士が顔を合わせる機会も多い。
しかしひろ江はママ友と世間話をすることも無い。
ひろ江はその後も同じ場所で暮らすが、どこのコミュニティへ所属することもない為、
子供の置かれた環境を把握する事はない。
子供時代の時間は貴重で、1分1秒と無駄にできないが、
ひろ江には時間の大切さが判らない。
ルーティン以外の事には反対し、反対する理由を尋ねられると説明することが出来ない。
子供は多くを見聞きし、体験する事で成長していくが、
ひろ江は子供に見聞録をさせたいとは思わない。
ひろ江の最優先事項は〝毎日が同じであること”である。
ひろ江が望んでいる状況“毎日が同じで変化がないこと“と、子供が成長することは
両極端にあった。
考察:
ひろ江の視野には、成長という文字がない。
昨日と今日、今日と明日、明日と1年後、10年後、20年後、すべてが同じ日である。
実際に、ひろ江はこの30年間、毎日同じ事を繰り返している。
おそらく残りの30年も同じことをすると予想がつく。
オリの中のネズミは回転車に乗ってカラカラ走るが、そこには理由もなく意思もない。
ひろ江の行動はそれに似ていて、すべての行動に理由がない。
理由を尋ねられると 「毎日しているから」と言う。
ひろ江は家事をしている間、何も考えずに手足だけを動かしている。
何かを考えているひろ江を見ることは無い。
ひろ江は視力も聴力も問題ないが、多くの事に気づかない。
例えば、誰かの顔色が悪い、雰囲気が違う、元気がない、様子がおかしい、等の
視覚的情報もキャッチしない。
耳が聞こえているが聴覚的情報の多くもキャッチしない。
多くの情報がひろ江の中で留まることなく、素通りしていく。
ひろ江の居る世界には彩があるのだろうか。
情報が極端に少なく、色彩の薄い、平面的な世界に居るのではないだろうか。
筆者は、ひろ江を見ているだけで息苦しくなることがあるが
ひろ江は何も感じていないように見える。
もしかすると、彼女にとって今の生活が幸せなのかもしれない。
しかしながら、彼女は自身の幸せに気づくことはない。
ひろ江が常に、直近のルーティンに向かって全力疾走しているのは、
時間の概念が欠如していることと関与があるのではないだろうか。
(次回へ続く・・・)



