【ザレキネタ】杜子春―――中国オリジナルと日本版@芥川龍之介
杜子春の物語といえば、少し本を読まれる方には身近な存在ですね。
文豪の最高峰たる芥川龍之介の著作ですし。芥川龍之介の著作では、「くもの糸」に並んで有名なタイトルでもあります。
芥川龍之介の作品と言えば、元は中国の小説・古典が出典(?)と言う事はよく知られた事実ですが、杜子春もその例に漏れず、原典は中国の小説です。
ちょっと調べてみたところ、「続 玄怪録(しょく・げんかいろく)」という本が原典のようです。
とはいっても、「続 玄怪録」に編纂されたのが9世紀中ごろですので、もう少し前の時代に書かれたのかもしれません。
文学というのは基本的に平和な時代に書かれるものが通例ですので、唐の時代に書かれたんじゃないかな、と自分は思っています。いわゆる乱世の時代に小説(物語)を書く余裕なんてありませんからね。いつ殺されるか分かりませんから。
日本だって、その例に漏れませんね。竹取物語や源氏物語は平安時代ですし、明治時代の文豪・夏目漱石や芥川龍之介も(日本国内が)平和な時代に名を成していますし。逆に、応仁の乱から戦国時代にかけては有名な物語はありませんね。
話が逸れました。
杜子春は先ほど書いたとおり、「続 玄怪録」に掲載された物語です。李復言(り ふくげん)という人が9世紀中ごろに編纂した、と伝えられています。
タイトルが「続」とあるとおり、「玄怪録」という書物もありますが、内容的にはあまり変わらないようです。作者というか編者(牛僧儒:ぎゅう そうじゅ)は違うようですが。
李復言、牛僧儒という人は、中国ではいわゆる2流にあたる人物のようです。
もともと、中国では1流の人物は歴史編纂に流れていきます。
物語を何故「小説」と「小さい」という漢字を当てるのか、というと、「史実」>「作り物語」という風潮が中国であったからです。読んでいる、という事実すら憚るような事象だった、とも言われていますので、一種のポルノ的扱いを受けていたのかもしれません。幼児が読むような三国志の絵本版よりも扱いが低かった、と言っている人もいます。
で、再び話が逸れてしまいましたので修正(笑)
杜子春の物語@芥川龍之介は人口に膾炙していますが、念のために簡単なあらましを。
洛陽という中国で大きな街で金持ちの息子に生まれた杜子春ですが、財産を使い果たして貧乏になったところ、見た目貧相なお爺さんが「黄金が沢山埋まった場所」を教えてくれます。
で、その黄金のおかげで金持ちになった杜子春ですが、馬鹿丸出しで再び財産を使い果たして貧乏になって、再びお爺さんに黄金が埋まっている場所を教えてもらって金持ちになるんですが、反省すら知らぬ猿以下ばりに、再び財産を使い果たしてすっからかんになります。
で、もう一回お爺さんに黄金の場所を教えてもらうのですが、「お金はいらない。人間に愛想が尽きたので仙人になりたい」とお爺さんに言います。
実はこのお爺さん、峨眉山(がびさん)に住む鉄冠子(てっかんし)という仙人でして、杜子春を弟子にします。
峨眉山に連れていかれた杜子春ですが、鉄冠子が
「お前はそこで待っておれ。
ただしどんなやつが現れても、どんなことが起こっても、天地が裂けても口をきいてはならない。
一言でも口を聞いたら仙人になれないからな」
と言い残して立ち去ります。
その後は恒例の(?)稲妻やら火柱といった怪現象、身の丈3丈の神将が脅してスカして斬り殺して、果ては閻魔様からは地獄の責苦フルコース。
で、閻魔様も呆れたか怒ったかで、
「杜子春の父母は畜生道に墜ちているから引っ立てて来い」
と命じて、痩せ馬に転生(?)された杜子春の両親を連れてきます。
で、まずは杜子春の父親が鞭打たれて殺されて(死んでるんではなかったのでしょうかという突っ込みはさておいて)、
さて次は母親の番だ―――という所で(馬だけど)母親が
「私たちがどうなっても、お前が幸せになってくれればいいんだよ。
言いたくない事は黙っておいて」
その言葉を聞いた杜子春が、ついに「問うに落ちず語るに落ちる」っぽく、ついに
「お母さん」
と叫んだ瞬間、場所は変わって洛陽。
結局、杜子春は人間らしい真っ当な暮らしをしようと誓う―――
そこで、この物語は終わります。
結局のところ、息子は何をやっても母親には勝てない、という事をあらわした物語ですが(違)
オリジナルは最初と最後の部分が異なります。
というか、続きがあるんですね。
実は杜子春が生まれ変わってから―――という物語があります。
一応、整理しておきますと、オリジナルと芥川龍之介版は、まず舞台から違うんですね。
昔の中国の大きな都市名を2つあげろ、といわれたら、大体「洛陽」と「長安」を指すと思います。
北京・南京といったあたりは、そうですね、元の時代あたりから出てきてる具合でしょうか。
で、芥川龍之介版は洛陽が舞台ですが、オリジナルは長安が舞台となっています。
これは日本に馴染みがあるのが洛陽だから、ではないでしょうか。
中国を模倣して作った京都を洛中・洛外というのは、洛陽の文字を使ったと、いう点で芥川龍之介は洛陽を舞台とした、と推察されます。
あと、芥川版では「黄金」を貰う事になっていますが、原典では「穴明き銅銭」です。
お金という意味では、銅銭より金の方が馴染みがあるからでしょうか。
(これは当時―――明治時代―――の貨幣事情もあります)
大きな違いは、杜子春に与えられる責苦です。
芥川版では両親となっていますが、原典では妻に危害を加える事になっています。
中国では「孝(親子関係)」を重要視しています。日本では「和(協調性)」ですね。
そういった国情の違いもありまして、親を叩きのめされると「話が続かない」ことになります。親を叩きのめされているのに我を通そう、というのは、中国では許されざる事になります。日本で協調性を乱す行為、という具合に捕らえると分かりやすいでしょうか。
かの三国志演義でも、劉備玄徳が「親兄弟は腕のごとし、妻子は服のごとし」と言ったように、「親兄弟は取替えがきかないけど、妻子は取替えが利く」というものです。
なので、親を叩きのめされる事になると、中国では「受けが悪い」ことになり、妻を叩きのめされる、という展開にしたのでしょう。
まぁ日本ではカカァ天下が一般的普遍的恒久的法則ですので、その場面を読みたい男性諸氏が(一部)いるかもしれない、というはさておいて(笑)
そういう国情を踏まえておいて、原典のその後を。
まず、閻魔様、ではなく、峨眉山に現れた神将が杜子春を脅してスカしても反応が無い(?)ので、(両親ではなく)妻を責め立てる事になるのですが、一向に杜子春は口をきこうとしません。
嫁さんは
「名前さえ言うだけで私は苦しまなくても済むのに、あなたは酷い人だ」
と慟哭するのですが、それでも口をきこうとしない杜子春。
さすがに呆れた神将が
「おまえは生かしてはおけない」
と杜子春を斬り殺してしまいます。
で、地獄に墜ちた杜子春ですが、ここでも地獄の責苦フルコースを喰らわされながらも、口をきこうとしません。
結局、閻羅王(閻魔様ではないけどおなじようなもの)から
「杜子春は陰が勝った人間だから、女に生まれ変わらせるように」
ということで、女に生まれ変わる事になります。
(男性の性器を陽物、女性の性器を陰部、と言うやつですね)
女に生まれ変わった杜子春ですが、相当美貌の誉れが高い女性になります。
で、妙齢の女性となって、進士(超一流のエリート。玉の輿)に嫁ぐ事になりますが、生まれ変わっても見上げたもので、まるで口をきこうとしません。
(ベッドの上でも口をきかなかったのでしょう(笑))
で、さすがに旦那もキレてしまって、
「こんな事なら息子がいたって仕方がない」
と叫んで、杜子春の生んだ息子(幼児)の足をつかんで石に叩きつける、という現在の親ですらやらない既知外沙汰をしでかします。
―――血の濺ぐ(そそぐ)こと数歩―――
とありますから、血が2メートルくらい飛び散ったのでしょう。
杜子春はこのとき、ついに
「噫(おっ)」
と叫んでしまいます。
で、ここで舞台(長安)に戻ります。
ここでお爺さんは
「お前は、喜・怒・哀・懼れ(おそれ)・悪・欲は忘れた。しかし忘れるに至らなかったのは『愛』だけだ」
と言い、物語を結んでいます。
(ちなみに、原典では「不老長寿の薬のために『口をきいてはならない』」と命じられています)
芥川版では、「子の親に対する愛情」を主眼に置いていますが、原典では「親の子に対する愛情」を主眼に置いていますね。
先ほど、中国では「孝」を重要視している、と書きました。
それは「子から親」への意味ですが、「親から子」は『慈』と言います。
両方とも親子間のものですが、基本的に中国では「孝」を重要視している事もあって、そのアンチテーゼとして「親から子」という「慈」をテーマとしたのでしょう。
人口に膾炙した、芥川龍之介の杜子春。
オリジナルの杜子春。
どちらも愛情をテーマにした物語ですが、何気にオリジナルの方―――「慈」を扱った物語の方―――が内容的に良いなぁ、と、時々思う今日この頃です。