誇りを持つ、という事
わくたま様@13Hz!の記事にコメント書いた続きみたいなの。
長文覚悟めされい。
自分は日本という国に生まれて良かった、と思っている。再び生まれ変わるとしたら、日本人として生まれたい、とも思っている。
理由は単純で、歴史が豊穣である事、そして「日本人らしさ」―――例えば花を愛でる美しさや趣味を文化に昇華させる民俗性など―――が好きだからだ。
だが、いつの頃からそのように考えたのであろうか。
幼年期や小学校・中学校の時は、「日本人で良かった」などと考えた事は無い。無論、これは親の保護下にあって、そのような事を考える理由も必要も無かった事もあり、意識するほどのものではなかったのが大きな理由であろう。しかし、高校のときに本格的に歴史を学ぶようになって、「日本人であってよかった」と思うようになった。いわば「日本人としての目覚め」と言った具合か。
高校のとき、学校の書庫(一般的に貸し出し不可能な学術書の類が納められている部屋)で中国の歴史書を読んでいるときに様々な疑問が沸き起こった。
例えば「抗」。
春秋・戦国時代や漢楚攻防戦(劉邦・項羽)で日本でも有名でもあるが、数十万単位で崖に人(兵士)を追い込んで墜とし殺す、という殺戮方法だ。
日本史では、そのような殺戮は存在しない。
敢えて書くなら叡山延暦寺を焼いた織田信長の行為がそれに近いかもしれないが、その時は「政治的中立違反」を犯した延暦寺側に非がある。
ただ、延暦寺が朝廷に深くつながっていた事、(日本では)滅多に見られない放火で焼き「尽くした」ためにクローズアップされたという現実がある。
何故、中国ではそのような殺戮が頻繁に起こるのであろうか、というのが当時で最大の疑問だった。至近の文革などを見て「お国柄」とすれば中国に非礼に当たるだろうが、どうしてもそのようにしか思えなかった。今では、そのようにしなければならない理由は知っている。だが、今なお理解は出来ても納得は出来ない自分がいる。
(日本人的な)感情から見れば「そこまで殺す必要は無いだろう」と自然に思うからだ。
目に見える文化。
七五三や入学式・卒業式といった堅苦しい「儀式」がある反面、漫画やゲームといったサブカルチャーと言われるものは、恐ろしいまでに豊穣だ。
膨大な労働力が注ぎ込まれてできる様々なテーマを扱った漫画、
(有名ゲームに限られるが)ゲームミュージックを音楽CDや楽譜を売り出したり、
ゲームセンターに明るい雰囲気(?)を持ち込んだプリクラや音ゲー、
外国に配信されるまでになった日本製アニメなどなど。
日本にいれば当然な物、として認識されるものが、海外では「(いい意味で)珍重される」という事実。
それらを知っていく度に、自然と心の中に積もってきた思いがある。
最初は胎内にあるがごとく、目に見える形ではなかった。しかし、少しずつ、少しずつ成長していき、社会に出て行く時にはすでに明確な意識として生まれてきた。
曰く、「日本人に生まれて良かった―――」
その思いは、自然と日本人としての誇り、プライドに昇華されてきた。
基本的に、それは日常生活の中では目立たない。しかしそれは自分の主義・主張に大きく影響を及ぼしている。いわゆる「思想」ないし「哲学」と言われているジャンルだ。
人は概ね、主義・主張を持ち、思想や哲学を大なり小なり持っている。それらは急にポンと生まれたのではなく、日々の生活の中で醸成していったものだろう。
人によって「日本人として誇りを持っている」あるいは「誇りを持っていない」という明確な差異も生まれてくるだろう。
日本人の中には、日本人として誇りを持っていない人もいるかもしれない。
そういう人も含めて、一つ質問したい。
「あなたは何人ですか?」
その問いに「私は日本人です」と答える人は、少なからず日本人である事に誇りを持っている人だと思う。
そうは言っても、誇りを持てないと言う人もいるかもしれない。
しかし、そういう人であっても、日本で生まれ生活してきた人は、周りから見たら「日本人」であり、海外に行ったら「日本人代表」として映る。
その事実は覆せない。
日本人として誇りを持て、とは言わない。
しかし、日本で生まれ、生きてきた以上は誇りを持たない人であっても「日本人として生きている」事に違いは無いのだから。
その自覚さえ持っていれば、誇りを持たなくても良いと思っている。無理して持つものでもないのだし、それが多種多様の価値観の中で生きる民主主義というものなのだから。
ただ―――。
そういう人には、
主権国家という枠組みのこの世界を考えると、基本的に「祖国に誇りを持っている」のがワールドワイドな常識(敢えてグローバルスタンダードとは書かない)だという事だけは理解していて欲しい。
アイロニー(皮肉)という言葉がある。
そう、日本人として誇りを持っていない、という人こそ、実はこの現代の良さを享受している一人なのだ。
長文覚悟めされい。
自分は日本という国に生まれて良かった、と思っている。再び生まれ変わるとしたら、日本人として生まれたい、とも思っている。
理由は単純で、歴史が豊穣である事、そして「日本人らしさ」―――例えば花を愛でる美しさや趣味を文化に昇華させる民俗性など―――が好きだからだ。
だが、いつの頃からそのように考えたのであろうか。
幼年期や小学校・中学校の時は、「日本人で良かった」などと考えた事は無い。無論、これは親の保護下にあって、そのような事を考える理由も必要も無かった事もあり、意識するほどのものではなかったのが大きな理由であろう。しかし、高校のときに本格的に歴史を学ぶようになって、「日本人であってよかった」と思うようになった。いわば「日本人としての目覚め」と言った具合か。
高校のとき、学校の書庫(一般的に貸し出し不可能な学術書の類が納められている部屋)で中国の歴史書を読んでいるときに様々な疑問が沸き起こった。
例えば「抗」。
春秋・戦国時代や漢楚攻防戦(劉邦・項羽)で日本でも有名でもあるが、数十万単位で崖に人(兵士)を追い込んで墜とし殺す、という殺戮方法だ。
日本史では、そのような殺戮は存在しない。
敢えて書くなら叡山延暦寺を焼いた織田信長の行為がそれに近いかもしれないが、その時は「政治的中立違反」を犯した延暦寺側に非がある。
ただ、延暦寺が朝廷に深くつながっていた事、(日本では)滅多に見られない放火で焼き「尽くした」ためにクローズアップされたという現実がある。
何故、中国ではそのような殺戮が頻繁に起こるのであろうか、というのが当時で最大の疑問だった。至近の文革などを見て「お国柄」とすれば中国に非礼に当たるだろうが、どうしてもそのようにしか思えなかった。今では、そのようにしなければならない理由は知っている。だが、今なお理解は出来ても納得は出来ない自分がいる。
(日本人的な)感情から見れば「そこまで殺す必要は無いだろう」と自然に思うからだ。
目に見える文化。
七五三や入学式・卒業式といった堅苦しい「儀式」がある反面、漫画やゲームといったサブカルチャーと言われるものは、恐ろしいまでに豊穣だ。
膨大な労働力が注ぎ込まれてできる様々なテーマを扱った漫画、
(有名ゲームに限られるが)ゲームミュージックを音楽CDや楽譜を売り出したり、
ゲームセンターに明るい雰囲気(?)を持ち込んだプリクラや音ゲー、
外国に配信されるまでになった日本製アニメなどなど。
日本にいれば当然な物、として認識されるものが、海外では「(いい意味で)珍重される」という事実。
それらを知っていく度に、自然と心の中に積もってきた思いがある。
最初は胎内にあるがごとく、目に見える形ではなかった。しかし、少しずつ、少しずつ成長していき、社会に出て行く時にはすでに明確な意識として生まれてきた。
曰く、「日本人に生まれて良かった―――」
その思いは、自然と日本人としての誇り、プライドに昇華されてきた。
基本的に、それは日常生活の中では目立たない。しかしそれは自分の主義・主張に大きく影響を及ぼしている。いわゆる「思想」ないし「哲学」と言われているジャンルだ。
人は概ね、主義・主張を持ち、思想や哲学を大なり小なり持っている。それらは急にポンと生まれたのではなく、日々の生活の中で醸成していったものだろう。
人によって「日本人として誇りを持っている」あるいは「誇りを持っていない」という明確な差異も生まれてくるだろう。
日本人の中には、日本人として誇りを持っていない人もいるかもしれない。
そういう人も含めて、一つ質問したい。
「あなたは何人ですか?」
その問いに「私は日本人です」と答える人は、少なからず日本人である事に誇りを持っている人だと思う。
そうは言っても、誇りを持てないと言う人もいるかもしれない。
しかし、そういう人であっても、日本で生まれ生活してきた人は、周りから見たら「日本人」であり、海外に行ったら「日本人代表」として映る。
その事実は覆せない。
日本人として誇りを持て、とは言わない。
しかし、日本で生まれ、生きてきた以上は誇りを持たない人であっても「日本人として生きている」事に違いは無いのだから。
その自覚さえ持っていれば、誇りを持たなくても良いと思っている。無理して持つものでもないのだし、それが多種多様の価値観の中で生きる民主主義というものなのだから。
ただ―――。
そういう人には、
主権国家という枠組みのこの世界を考えると、基本的に「祖国に誇りを持っている」のがワールドワイドな常識(敢えてグローバルスタンダードとは書かない)だという事だけは理解していて欲しい。
アイロニー(皮肉)という言葉がある。
そう、日本人として誇りを持っていない、という人こそ、実はこの現代の良さを享受している一人なのだ。