高校生○○○人に聞きました@産経新聞
産経新聞が戯れ言抜かしてるなぁ意味の無い調査をしてどこを儲けさせてるんだろう、とネットカフェで紫煙を燻らせつつ産経新聞の悪いところをため息ついて生温かく読み進めていたら、㌧でもないところがあった。悪いところが最も悪いところで的中する、というやつだ。
某2chで「斜め上」と某民族を揶揄して言うが―――
ごくありふれたネタを最悪の思考、最悪の人物に充てると、目も当てられない内容に逝き付く。そう、「逝く」という表現こそが正しい、と唸らせる(唸らされたくないが)内容になっている。
ネタは「高校生○○○人に聞きました」
以下、ソース
-------------
自己中心で刹那的-日本の高校生 米中に比べ際立つ低さ
国に誇り51%/親の面倒43%
「国に誇りを持っている」という日本の高校生は51%で、米国、中国に比べて二割以上少ないことが日・米・中三カ国の高校生を対象にした意識調査で分かった。日本の高校生は「将来を思い悩むより、その時を大いに楽しむべきだ」「親の面倒をみたくない」と考える割合も三カ国中で最も多く、刹那(せつな)的、自己中心的に生きる日本の若者意識が浮かび上がった。
≪国旗・国歌≫
調査は、財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)が昨年九月から十二月にかけて、三カ国三十五の高校で行い、三千六百四十九人が回答した。
「自分の国に誇りを持っているか」との設問に、「強く持っている」「やや持っている」と答えた日本の高校生はあわせて51%と、米中両国に比べ目立って低かった。国旗、国歌を「誇らしい」と思う割合も、米中両国の半分以下。「国歌を歌えるか」との質問には、「歌える」と答えた日本の高校生は66%にとどまり、三人に一人は、「少し歌える」「ほとんど歌えない」と答えるなど、国旗国歌に抵抗感を植え付ける自虐的教育の影響を懸念させる結果となった。
こうした意識は国旗国歌への敬意などに表れ、「学校の式典で国歌吹奏や国旗掲揚されるとき、起立して威儀を正すか」との質問に「起立して威儀を正す」と答えた日本人高校生は米中の半分以下の30%。38%は「どちらでもよいことで、特別な態度はとらない」と答え、国際的な儀典の場で、日本の若者の非礼が批判を受ける下地となっていることをうかがわせた。
≪将来・意欲≫
将来への希望を問う設問では、「将来は輝いている」「まあよいほうだが最高ではない」と答えた割合は中国が80%と最も高く、日本は54%で最も悲観的であることが分かった。
さらに、勉強については「平日、学校以外でほとんど勉強しない」が45%(米15%、中8%)、「授業中、よく寝たり、ぼうっとしたりする」も73%(米49%、中29%)と、学習意欲も米中に比べて明らかに低いことが裏付けられた。
生活面では「若いときはその時を楽しむべきだ」と答えた高校生の割合も三カ国で最も高かった。
≪恋愛・家族≫
恋愛観では「純粋な恋愛をしたい」と考える割合は九割と日本が最も高かった。しかし、結婚後「家族のために犠牲になりたくない」も日本がトップ。将来「どんなことをしても親の面倒をみたい」は三カ国で最も低く、逆に「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたい」が18%と、米国9%、中国12%を大きく上回った。
こうした結果から「純愛で結婚したいが、家族の犠牲にはなりたくない。親の面倒は金で他人に見てもらいたい」という自己中心的な恋愛観・家族観が浮かんでいる。
◇
【識者コメント】
■親から啓蒙する必要
森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。少子化に加え、数少ない子供の質が低下する「劣子化」が今の日本の問題。個人は社会に支えられており、「国あっての自分」「家あっての自分」ということを理解していない。
対策として、学校と家庭で日本流の人生観教育・職業観教育を実践し、幼いころから自分と国との関係を考えさせることを提案したい。本来、総合学習や生活科はそういった教育を行う場なのだが、指導法に問題があるために実現していない。ただ、子供の教育は一義的には家庭が行うもの。まずは親に対する信念調査を実施して、親が子供や国の将来についてどのように考えているか把握し、親を啓蒙(けいもう)する必要がある。
■自信持たせる環境を
教育関係の著書も多い精神科医の和田秀樹氏の話 大人が考える以上に、若者の間にあきらめが氾濫(はんらん)し、刹那的になっている。
バブル経済前は、頑張って勉強すれば誰でもある程度の生活ができるという、社会に対する確信があった。しかし終身雇用が崩れ、大学を出ても就職できない状況になり、将来に希望を持てなくなっている。
あきらめの早さの背景には、社会に対する不信とともに、日本という国や自分自身に対して誇りを持てなくなったことが挙げられる。誇れる気持ちを植え付けるのは学校教育の役割ではあるが、学校だけで実現が難しいのも現状だ。
学校が徹底した学力向上策を図って最低限の自信を植え付けた上で、マスメディアも含め社会全体が若者が誇りを感じられる環境を作り出す必要がある。
---------
「将来を思い悩むより、その時を大いに楽しむべきだ」「親の面倒をみたくない」という見方はどこから出てきたのかが疑問である。結果を見る限り、そのような点は見当たらないのだが。というか、そういう論旨は出さないほうがいいだろう。少なくとも、質問事項と結果の両方を明かさない限り、情報開示を旨とするマスコミの本質から外れているのだから。
目の前に現れた事実を淡々と国民に知らしめる事―――決して記者・編集者の意図が入った状態にせず―――がマスコミの本質だと自分は思っている。
≪国旗・国歌≫に関してはいいだろう。日本では、そのような情操教育を行っていない。他国から見たら異常なほど「教育していない」のではあるのだが、自国至上主義に育てられるのも良し悪しである。これに関しては、歴史が証明する事になるだろう。
≪将来・意欲≫に関しては、調べるのも無意味だろう。社会に出ていない学生にはイメージしかつかない。社会に出てからが勝負なのだから、明るすぎるイメージを持たれても困る物ではあるし、そもそも社会に出たときは情勢も変わっている可能性があるのだから。
≪恋愛・家族≫もどうでもいい。ドロドロとした人間関係を知らない以上、少なくとも親の保護下にあるときくらいは純粋であった方がいい。社会に出てから意識も変わるだろうから。社会に出てからが勝負な事でもあるし。自分のように「純愛嫌い」な人になられると困るけれども(親父殿、母上殿、スマン)
だが、どうしても見逃せないところがある。
●森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)
>個人は社会に支えられており、「国あっての自分」「家あっての自分」ということを理解していない。
これには明確に「それは違う」と反論しよう。
「国あっての自分」「家あっての自分」という考え方は間違っている。
本質的に、個人(国民)が集まって形成されるのが国家であり、個人が支えるのが「家」だ。
特に「国あっての自分」というのは危険な思想だ。いわゆる全体主義につながる。国家の為すことは正しく、反対する事は許されない、という考え方になるからだ。その全体主義がどのような経過を経たかは、すでに戦前に証明されている。それがいかに民主主義を経た、としてもだ。
だからこそ、与党のみならず野党が下らない事を言い出しても(無論下らないものばかりではないが)議論し、より良い方法を模索するのが民主主義というものだ。その点をもってしても、森教授の言っている事は正しくない。正しくないどろか間違いであり危険だ。まさに歴史というものを理解していない。
本質的に歴史、正確に歴史学とは「過去の失敗を閲覧する」学問だ。過去の失敗を見て現在をよりよい物にしよう、というスタンスで見なければ歴史の本質が分からない。だからこそ、学校教育に歴史というものが存在する。単純に史実と年号を覚えるのが歴史学ではない。その点では、現在の日本歴史教育というのは本質を誤っていると言えるが、少なくとも奈良・平安・鎌倉・足利・戦国・江戸・明治・昭和という順序を学ぶだけでも、歴史教育は無駄ではない。
最高学府の教授、しかも学閥の(ほぼ)トップにある人物がそのような考えを持っているのは驚愕に値する。ゲーム脳やらメール脳うんたらで戯れ言を抜かしているものの比ではない。というか、まだゲーム脳の方が救われる。何故なら「そういう考え方もできる。それが呆れる内容であったとしても」という考え方ができるからだ。多種多様な見方こそが(明確に無駄なものであったとしても)技術・思想の発展につながるのもある。
>学校と家庭で日本流の人生観教育・職業観教育を実践し、幼いころから自分と国との関係を考えさせることを提案したい。
何が言いたいのかは不明だ。人生観・職業観と、当人と国の関係がどうつながるのだろうか。
そもそも、人生観とは、当人が人生を歩む上で自然と身に付ける物だ。時折「正しい人生」とか「普通の人生」という言葉を見受けられるが、そのようなものは概念的なものであり、教えるのも不可能であるし、教わっても身に付くものではない。
確かに、職業観を教えるのは理想論だ。しかし、様々な職業がある以上、教えるのは物理的に不可能だ。
製造業の職人にはプライドと技術があるし、役人には知識とパブリック・サーヴァントとしての自覚が必要だし、政治家には政治理念と実行力が必要だし、営業職には商品・サービスの把握と手回しの技術が必要だ。それら簡単なものを概念的に教える事は可能かもしれないが、概念だけではどうしようもないのも事実だ。
自分と国の関係、というものに至っては口に出すのも憚られる。納税の義務や選挙権、民法・刑法などその他もろもろの事は自然と学ぶし、学んでいくものであるが。
森教授が言いたい事は想像できる。その根本たる個人の主義・主張も。しかし、それを口に出すのは不遜だ。情操教育にも良くないし、また、民主主義の概念からも外れる。教育者ではなく、煽動者という自覚があるのなら、それをやってもいいのだろうが…。
>ただ、子供の教育は一義的には家庭が行うもの。
家庭が教えるのは常識、そして躾だ。暦の見方や時間の把握、お小遣いの計画的な使い方がそれにあたる。
学校で教えるのは集団生活、そして教育(初等教育)がメインにあたる。
何を考えているのか知らないが、学校で教えるものと家庭で教えるべきものを勘違いしている。
●教育関係の著書も多い精神科医の和田秀樹氏
>誇れる気持ちを植え付けるのは学校教育の役割ではあるが、学校だけで実現が難しいのも現状だ。
「植え付ける」というのは言葉の妙だ。自分から見たら、「種子を植え付ける」と表現した方が正確だと思う。
誇りを持つこと自体は正しい。
しかし、それをどのように「成長」させるかを学校でやるべきではない。誇りを持つ、といっても、
「世界に冠たる我が日本」という先鋭的な誇りなのか、
「Japan as No.1」という控えめな、しかし重要な位置付けに居るための誇りなのか、
などといった様々な誇りの持ちようがあるからだ。その持ちようを個人個人の主義・主張につながるものでもあるから、学校が率先して教える必要は無いだろう。
>学校が徹底した学力向上策を図って最低限の自信を植え付けた上で、マスメディアも含め社会全体が若者が誇りを感じられる環境を作り出す必要がある。
この和田氏の主張には多いに賛同する。
学校が学力向上を図ることは、社会に出てからも必要な「学ぶための忍耐力」を付けさせるためにも。殊に算数・数学は「論理的な思考」を養うのに必要な科目でもあるし、国語は「読解力」を養うのにも必要だ。
しかし、社会全体が若者に誇りを感じる環境を作り出す必要は無い。というよりも、社会の中で生きている人間が希望と誇りを持つ環境であれば、「自然に若者が誇りや希望をもつ」からだ。それは親から子へ伝達する「儀式の一環」でもある。その事を考えれば、無理にあるいは誇張して環境を作り出す必要は無い。
社会とは日々変わっていく物であり、次の世代(若者の世代)はその変わった社会の中で生きる。つまり、今の世代は、次の世代のための「種子」を社会の中に植えていくだけで良いのである。その種子に「誇り」が含まれているかは、酷なようだが、次の世代が受け取るかどうか、である。人類社会というのは、そうやって伝えられてきたものだ、と自分は思っている。
その上で書くなら、「若者の間にあきらめが氾濫(はんらん)し、刹那的になっている。」という和田氏の意見はあくまで「和田氏の世代から見たら」という視点に留まる。いわゆる「キレ」やすい若者の事を指しているのだろう。学校に切り込むという馬鹿がニュースの話題をさらうようになって久しいが、それは狂人が社会の中で目立ちやすいだけの話だ。
最近というか、高校生がだらしない格好で電車の中で座り込んだり、車内で化粧する馬鹿がいるが、それは見た目でいうと大学生以下だ。社会人ともなれば、そのような不様な姿は晒さない。社会に出ればそれなりの常識を身につける事情もあるからだ。
ただ、懸念すべき事項は最近クローズアップされてきた何ら生産に寄与しないニートであって、そちらをどうにかしないといけないだろう。
そういった意味では、和田氏は見るべき所、為すべき優先順位を履き違えているような気がする。
バブルの時代以降、30代前半の人間は好景気という時代を知らない低成長期の世界を生きている。
低成長とはいえ、概ね生活するのに不足はない。最低限ではあるが、何とか生きていける。
好景気という明るい展望が見えないからこそ、誇りがもてないと勘違いしているような気がする。
誇り―――プライドがあるからこそ、主義・主張が活発に動き、Blogで議論が行われている。
技術が人の視野を広げている。
誇りとは何なのか。
それを考えれば、決して産経新聞が書いているような思考には陥らないであろう。
昨今、言われている新聞の主張と受け手(国民)の意識の乖離。
現在のインターネット(Blog)の普及と低成長というしがらみ。
過去の常識と現在の常識が入れ替わりつつある。
30代前半の世代はその過渡期を生きている。そして、「あの時代」を生きた団塊の世代が社会の中枢から外れてくる。
所謂ジェネレーションギャップ。
歴史は静かに見守っている。
歴史がどのような評価を下すかは未来が知っており、それを我々が判断するわけにも行かないが、少なくとも、次の世代の事をあれこれ断ずるのは不遜であり、傲慢でもあろう。例え、「意識調査」と逃げ道を作ったとしても。
それを教え、諭し、種子を植えてきたのは、それより上の世代なのだから。
そして、その種子を植えた世代を評価する最初の一人は―――恐るべき事に、種子を「植えられた」世代なのである。
その事を自覚しているマスコミ関係者はどれくらいいるのだろうか。
某2chで「斜め上」と某民族を揶揄して言うが―――
ごくありふれたネタを最悪の思考、最悪の人物に充てると、目も当てられない内容に逝き付く。そう、「逝く」という表現こそが正しい、と唸らせる(唸らされたくないが)内容になっている。
ネタは「高校生○○○人に聞きました」
以下、ソース
-------------
自己中心で刹那的-日本の高校生 米中に比べ際立つ低さ
国に誇り51%/親の面倒43%
「国に誇りを持っている」という日本の高校生は51%で、米国、中国に比べて二割以上少ないことが日・米・中三カ国の高校生を対象にした意識調査で分かった。日本の高校生は「将来を思い悩むより、その時を大いに楽しむべきだ」「親の面倒をみたくない」と考える割合も三カ国中で最も多く、刹那(せつな)的、自己中心的に生きる日本の若者意識が浮かび上がった。
≪国旗・国歌≫
調査は、財団法人日本青少年研究所(東京・新宿)が昨年九月から十二月にかけて、三カ国三十五の高校で行い、三千六百四十九人が回答した。
「自分の国に誇りを持っているか」との設問に、「強く持っている」「やや持っている」と答えた日本の高校生はあわせて51%と、米中両国に比べ目立って低かった。国旗、国歌を「誇らしい」と思う割合も、米中両国の半分以下。「国歌を歌えるか」との質問には、「歌える」と答えた日本の高校生は66%にとどまり、三人に一人は、「少し歌える」「ほとんど歌えない」と答えるなど、国旗国歌に抵抗感を植え付ける自虐的教育の影響を懸念させる結果となった。
こうした意識は国旗国歌への敬意などに表れ、「学校の式典で国歌吹奏や国旗掲揚されるとき、起立して威儀を正すか」との質問に「起立して威儀を正す」と答えた日本人高校生は米中の半分以下の30%。38%は「どちらでもよいことで、特別な態度はとらない」と答え、国際的な儀典の場で、日本の若者の非礼が批判を受ける下地となっていることをうかがわせた。
≪将来・意欲≫
将来への希望を問う設問では、「将来は輝いている」「まあよいほうだが最高ではない」と答えた割合は中国が80%と最も高く、日本は54%で最も悲観的であることが分かった。
さらに、勉強については「平日、学校以外でほとんど勉強しない」が45%(米15%、中8%)、「授業中、よく寝たり、ぼうっとしたりする」も73%(米49%、中29%)と、学習意欲も米中に比べて明らかに低いことが裏付けられた。
生活面では「若いときはその時を楽しむべきだ」と答えた高校生の割合も三カ国で最も高かった。
≪恋愛・家族≫
恋愛観では「純粋な恋愛をしたい」と考える割合は九割と日本が最も高かった。しかし、結婚後「家族のために犠牲になりたくない」も日本がトップ。将来「どんなことをしても親の面倒をみたい」は三カ国で最も低く、逆に「経済的な支援をするが、介護は他人に頼みたい」が18%と、米国9%、中国12%を大きく上回った。
こうした結果から「純愛で結婚したいが、家族の犠牲にはなりたくない。親の面倒は金で他人に見てもらいたい」という自己中心的な恋愛観・家族観が浮かんでいる。
◇
【識者コメント】
■親から啓蒙する必要
森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。少子化に加え、数少ない子供の質が低下する「劣子化」が今の日本の問題。個人は社会に支えられており、「国あっての自分」「家あっての自分」ということを理解していない。
対策として、学校と家庭で日本流の人生観教育・職業観教育を実践し、幼いころから自分と国との関係を考えさせることを提案したい。本来、総合学習や生活科はそういった教育を行う場なのだが、指導法に問題があるために実現していない。ただ、子供の教育は一義的には家庭が行うもの。まずは親に対する信念調査を実施して、親が子供や国の将来についてどのように考えているか把握し、親を啓蒙(けいもう)する必要がある。
■自信持たせる環境を
教育関係の著書も多い精神科医の和田秀樹氏の話 大人が考える以上に、若者の間にあきらめが氾濫(はんらん)し、刹那的になっている。
バブル経済前は、頑張って勉強すれば誰でもある程度の生活ができるという、社会に対する確信があった。しかし終身雇用が崩れ、大学を出ても就職できない状況になり、将来に希望を持てなくなっている。
あきらめの早さの背景には、社会に対する不信とともに、日本という国や自分自身に対して誇りを持てなくなったことが挙げられる。誇れる気持ちを植え付けるのは学校教育の役割ではあるが、学校だけで実現が難しいのも現状だ。
学校が徹底した学力向上策を図って最低限の自信を植え付けた上で、マスメディアも含め社会全体が若者が誇りを感じられる環境を作り出す必要がある。
---------
「将来を思い悩むより、その時を大いに楽しむべきだ」「親の面倒をみたくない」という見方はどこから出てきたのかが疑問である。結果を見る限り、そのような点は見当たらないのだが。というか、そういう論旨は出さないほうがいいだろう。少なくとも、質問事項と結果の両方を明かさない限り、情報開示を旨とするマスコミの本質から外れているのだから。
目の前に現れた事実を淡々と国民に知らしめる事―――決して記者・編集者の意図が入った状態にせず―――がマスコミの本質だと自分は思っている。
≪国旗・国歌≫に関してはいいだろう。日本では、そのような情操教育を行っていない。他国から見たら異常なほど「教育していない」のではあるのだが、自国至上主義に育てられるのも良し悪しである。これに関しては、歴史が証明する事になるだろう。
≪将来・意欲≫に関しては、調べるのも無意味だろう。社会に出ていない学生にはイメージしかつかない。社会に出てからが勝負なのだから、明るすぎるイメージを持たれても困る物ではあるし、そもそも社会に出たときは情勢も変わっている可能性があるのだから。
≪恋愛・家族≫もどうでもいい。ドロドロとした人間関係を知らない以上、少なくとも親の保護下にあるときくらいは純粋であった方がいい。社会に出てから意識も変わるだろうから。社会に出てからが勝負な事でもあるし。自分のように「純愛嫌い」な人になられると困るけれども(親父殿、母上殿、スマン)
だが、どうしても見逃せないところがある。
●森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)
>個人は社会に支えられており、「国あっての自分」「家あっての自分」ということを理解していない。
これには明確に「それは違う」と反論しよう。
「国あっての自分」「家あっての自分」という考え方は間違っている。
本質的に、個人(国民)が集まって形成されるのが国家であり、個人が支えるのが「家」だ。
特に「国あっての自分」というのは危険な思想だ。いわゆる全体主義につながる。国家の為すことは正しく、反対する事は許されない、という考え方になるからだ。その全体主義がどのような経過を経たかは、すでに戦前に証明されている。それがいかに民主主義を経た、としてもだ。
だからこそ、与党のみならず野党が下らない事を言い出しても(無論下らないものばかりではないが)議論し、より良い方法を模索するのが民主主義というものだ。その点をもってしても、森教授の言っている事は正しくない。正しくないどろか間違いであり危険だ。まさに歴史というものを理解していない。
本質的に歴史、正確に歴史学とは「過去の失敗を閲覧する」学問だ。過去の失敗を見て現在をよりよい物にしよう、というスタンスで見なければ歴史の本質が分からない。だからこそ、学校教育に歴史というものが存在する。単純に史実と年号を覚えるのが歴史学ではない。その点では、現在の日本歴史教育というのは本質を誤っていると言えるが、少なくとも奈良・平安・鎌倉・足利・戦国・江戸・明治・昭和という順序を学ぶだけでも、歴史教育は無駄ではない。
最高学府の教授、しかも学閥の(ほぼ)トップにある人物がそのような考えを持っているのは驚愕に値する。ゲーム脳やらメール脳うんたらで戯れ言を抜かしているものの比ではない。というか、まだゲーム脳の方が救われる。何故なら「そういう考え方もできる。それが呆れる内容であったとしても」という考え方ができるからだ。多種多様な見方こそが(明確に無駄なものであったとしても)技術・思想の発展につながるのもある。
>学校と家庭で日本流の人生観教育・職業観教育を実践し、幼いころから自分と国との関係を考えさせることを提案したい。
何が言いたいのかは不明だ。人生観・職業観と、当人と国の関係がどうつながるのだろうか。
そもそも、人生観とは、当人が人生を歩む上で自然と身に付ける物だ。時折「正しい人生」とか「普通の人生」という言葉を見受けられるが、そのようなものは概念的なものであり、教えるのも不可能であるし、教わっても身に付くものではない。
確かに、職業観を教えるのは理想論だ。しかし、様々な職業がある以上、教えるのは物理的に不可能だ。
製造業の職人にはプライドと技術があるし、役人には知識とパブリック・サーヴァントとしての自覚が必要だし、政治家には政治理念と実行力が必要だし、営業職には商品・サービスの把握と手回しの技術が必要だ。それら簡単なものを概念的に教える事は可能かもしれないが、概念だけではどうしようもないのも事実だ。
自分と国の関係、というものに至っては口に出すのも憚られる。納税の義務や選挙権、民法・刑法などその他もろもろの事は自然と学ぶし、学んでいくものであるが。
森教授が言いたい事は想像できる。その根本たる個人の主義・主張も。しかし、それを口に出すのは不遜だ。情操教育にも良くないし、また、民主主義の概念からも外れる。教育者ではなく、煽動者という自覚があるのなら、それをやってもいいのだろうが…。
>ただ、子供の教育は一義的には家庭が行うもの。
家庭が教えるのは常識、そして躾だ。暦の見方や時間の把握、お小遣いの計画的な使い方がそれにあたる。
学校で教えるのは集団生活、そして教育(初等教育)がメインにあたる。
何を考えているのか知らないが、学校で教えるものと家庭で教えるべきものを勘違いしている。
●教育関係の著書も多い精神科医の和田秀樹氏
>誇れる気持ちを植え付けるのは学校教育の役割ではあるが、学校だけで実現が難しいのも現状だ。
「植え付ける」というのは言葉の妙だ。自分から見たら、「種子を植え付ける」と表現した方が正確だと思う。
誇りを持つこと自体は正しい。
しかし、それをどのように「成長」させるかを学校でやるべきではない。誇りを持つ、といっても、
「世界に冠たる我が日本」という先鋭的な誇りなのか、
「Japan as No.1」という控えめな、しかし重要な位置付けに居るための誇りなのか、
などといった様々な誇りの持ちようがあるからだ。その持ちようを個人個人の主義・主張につながるものでもあるから、学校が率先して教える必要は無いだろう。
>学校が徹底した学力向上策を図って最低限の自信を植え付けた上で、マスメディアも含め社会全体が若者が誇りを感じられる環境を作り出す必要がある。
この和田氏の主張には多いに賛同する。
学校が学力向上を図ることは、社会に出てからも必要な「学ぶための忍耐力」を付けさせるためにも。殊に算数・数学は「論理的な思考」を養うのに必要な科目でもあるし、国語は「読解力」を養うのにも必要だ。
しかし、社会全体が若者に誇りを感じる環境を作り出す必要は無い。というよりも、社会の中で生きている人間が希望と誇りを持つ環境であれば、「自然に若者が誇りや希望をもつ」からだ。それは親から子へ伝達する「儀式の一環」でもある。その事を考えれば、無理にあるいは誇張して環境を作り出す必要は無い。
社会とは日々変わっていく物であり、次の世代(若者の世代)はその変わった社会の中で生きる。つまり、今の世代は、次の世代のための「種子」を社会の中に植えていくだけで良いのである。その種子に「誇り」が含まれているかは、酷なようだが、次の世代が受け取るかどうか、である。人類社会というのは、そうやって伝えられてきたものだ、と自分は思っている。
その上で書くなら、「若者の間にあきらめが氾濫(はんらん)し、刹那的になっている。」という和田氏の意見はあくまで「和田氏の世代から見たら」という視点に留まる。いわゆる「キレ」やすい若者の事を指しているのだろう。学校に切り込むという馬鹿がニュースの話題をさらうようになって久しいが、それは狂人が社会の中で目立ちやすいだけの話だ。
最近というか、高校生がだらしない格好で電車の中で座り込んだり、車内で化粧する馬鹿がいるが、それは見た目でいうと大学生以下だ。社会人ともなれば、そのような不様な姿は晒さない。社会に出ればそれなりの常識を身につける事情もあるからだ。
ただ、懸念すべき事項は最近クローズアップされてきた何ら生産に寄与しないニートであって、そちらをどうにかしないといけないだろう。
そういった意味では、和田氏は見るべき所、為すべき優先順位を履き違えているような気がする。
バブルの時代以降、30代前半の人間は好景気という時代を知らない低成長期の世界を生きている。
低成長とはいえ、概ね生活するのに不足はない。最低限ではあるが、何とか生きていける。
好景気という明るい展望が見えないからこそ、誇りがもてないと勘違いしているような気がする。
誇り―――プライドがあるからこそ、主義・主張が活発に動き、Blogで議論が行われている。
技術が人の視野を広げている。
誇りとは何なのか。
それを考えれば、決して産経新聞が書いているような思考には陥らないであろう。
昨今、言われている新聞の主張と受け手(国民)の意識の乖離。
現在のインターネット(Blog)の普及と低成長というしがらみ。
過去の常識と現在の常識が入れ替わりつつある。
30代前半の世代はその過渡期を生きている。そして、「あの時代」を生きた団塊の世代が社会の中枢から外れてくる。
所謂ジェネレーションギャップ。
歴史は静かに見守っている。
歴史がどのような評価を下すかは未来が知っており、それを我々が判断するわけにも行かないが、少なくとも、次の世代の事をあれこれ断ずるのは不遜であり、傲慢でもあろう。例え、「意識調査」と逃げ道を作ったとしても。
それを教え、諭し、種子を植えてきたのは、それより上の世代なのだから。
そして、その種子を植えた世代を評価する最初の一人は―――恐るべき事に、種子を「植えられた」世代なのである。
その事を自覚しているマスコミ関係者はどれくらいいるのだろうか。