高校生が選ぶ大学に入ったら読みたい本
TBN様経由
何気に巡回サイトの一つ、TBN様経由で「高校生が選ぶ大学に入ったら読みたい本」in佐賀大学をつらつらと読んでたのですが。
上位にきているハリーポッターはその分量から読み進めるのは時間の都合上もあるし、六法全書なんか高校生が読むとはとても思えないんだけど、某芥川賞を受賞した某若手女流作家2人の某作品(ちなみに「インストール」はすっげぇいい具合だった)、あと村上龍の「69」、「源氏物語」を見たら何かしら違和感を感じたわけですよ。
そんなモン高校で読める本ぢゃねーか、と。
で、ちょっとタバコを燻らしつつブラックコーヒーを飲みながら考えたんですが、「大学に入ったら読みたい本」とは別の意味で考えるなら「高校の時に読んでいない本」とも言えるんじゃないか、と。
そう考えた時、微妙な感覚に襲われたね。高校生の時に読もうと思えば読める本を、大学に逝ったからといって読むのか、と。
どの年代にも、相当な、むしろ努力家とも言える読書家は一定層いる。彼らの頭の中に入っている本の数・種類ときたら尋常じゃない。文庫本ですら眩暈がしかねないドストエフスキーの「罪と罰」は朝飯前、名前も知らないような海外作家やらマイナーとしか思えない書物やらを挙げるたび「こいつら一般人ぢゃねぇ」と思うくらい。かくいう自分も読書家の一端にいたんだけど。
とはいっても、自分に限って言えば、高校の時は読書家というよりも歴史(中国史がメイン)にウェイトを置いていたので中国古典はかなり読み込んだ。漢文つきの学術書みたいなやつ。殴れば一発で…っていうハードカバーのやつね。
史記はもちろん三国志正史・三国志演義、十八史略やらを(事実上の帰宅部にいたこともあって)図書室、ではなく書庫に入り浸っていた。勉強しに学校に逝ってるんじゃなくて読書しに逝っている、と言っていいくらい(貸し出し厳禁のため書庫でしか読めない)。
逆にいうと、読書家以外の人間が本を読む姿はほとんど見なかった。ベストセラーとか読んだり特定の好きな作家はいるんだけれども、それ以外にはまるで手をつけない。これは高校の時にも感じたし、(工業大学というビハインド(?)はあったが)大学の時にはついぞ読書家は見なかった。高校や大学で必要な参考書とかは試験対策もあって読むけれども、図書館でも姿は見なかったし、学内外の書店でも姿を見ることはなかった(漫画コーナーは除く)
経験則から出た答え(みたいなの)になるんだけど、読書と言うのは一種の習慣ではなかろうか。習慣、言い換えれば生活の一サイクルを担っているわけで、そのサイクルを持っていない人間が「能動的に」読書をするとは考えにくい。つまり高校で読もうとしなかった本を大学に進学したからと言って読むとは思えない。
今回の佐賀大学の「高校生に聞く大学で読みたい本」という試みには少し寂寥感を感じる。高校の時に読もうと思える本が並んでいるにも関わらず、大学の蔵書に加えると言う。無論、置かないより置いた方がいいんだろうけど、それを企画化した大学側が学生を図書館に呼ぼうとしている哀愁を感じられずにはいられない。それほど学生を図書館に呼び込みたいのか、と。もっと孤高に構えるものだと思っていたのだけれども…
っつーか100選の中に村上龍があって池波正太郎が無かったのは大学の陰謀でしょうか?
何気に巡回サイトの一つ、TBN様経由で「高校生が選ぶ大学に入ったら読みたい本」in佐賀大学をつらつらと読んでたのですが。
上位にきているハリーポッターはその分量から読み進めるのは時間の都合上もあるし、六法全書なんか高校生が読むとはとても思えないんだけど、某芥川賞を受賞した某若手女流作家2人の某作品(ちなみに「インストール」はすっげぇいい具合だった)、あと村上龍の「69」、「源氏物語」を見たら何かしら違和感を感じたわけですよ。
そんなモン高校で読める本ぢゃねーか、と。
で、ちょっとタバコを燻らしつつブラックコーヒーを飲みながら考えたんですが、「大学に入ったら読みたい本」とは別の意味で考えるなら「高校の時に読んでいない本」とも言えるんじゃないか、と。
そう考えた時、微妙な感覚に襲われたね。高校生の時に読もうと思えば読める本を、大学に逝ったからといって読むのか、と。
どの年代にも、相当な、むしろ努力家とも言える読書家は一定層いる。彼らの頭の中に入っている本の数・種類ときたら尋常じゃない。文庫本ですら眩暈がしかねないドストエフスキーの「罪と罰」は朝飯前、名前も知らないような海外作家やらマイナーとしか思えない書物やらを挙げるたび「こいつら一般人ぢゃねぇ」と思うくらい。かくいう自分も読書家の一端にいたんだけど。
とはいっても、自分に限って言えば、高校の時は読書家というよりも歴史(中国史がメイン)にウェイトを置いていたので中国古典はかなり読み込んだ。漢文つきの学術書みたいなやつ。殴れば一発で…っていうハードカバーのやつね。
史記はもちろん三国志正史・三国志演義、十八史略やらを(事実上の帰宅部にいたこともあって)図書室、ではなく書庫に入り浸っていた。勉強しに学校に逝ってるんじゃなくて読書しに逝っている、と言っていいくらい(貸し出し厳禁のため書庫でしか読めない)。
逆にいうと、読書家以外の人間が本を読む姿はほとんど見なかった。ベストセラーとか読んだり特定の好きな作家はいるんだけれども、それ以外にはまるで手をつけない。これは高校の時にも感じたし、(工業大学というビハインド(?)はあったが)大学の時にはついぞ読書家は見なかった。高校や大学で必要な参考書とかは試験対策もあって読むけれども、図書館でも姿は見なかったし、学内外の書店でも姿を見ることはなかった(漫画コーナーは除く)
経験則から出た答え(みたいなの)になるんだけど、読書と言うのは一種の習慣ではなかろうか。習慣、言い換えれば生活の一サイクルを担っているわけで、そのサイクルを持っていない人間が「能動的に」読書をするとは考えにくい。つまり高校で読もうとしなかった本を大学に進学したからと言って読むとは思えない。
今回の佐賀大学の「高校生に聞く大学で読みたい本」という試みには少し寂寥感を感じる。高校の時に読もうと思える本が並んでいるにも関わらず、大学の蔵書に加えると言う。無論、置かないより置いた方がいいんだろうけど、それを企画化した大学側が学生を図書館に呼ぼうとしている哀愁を感じられずにはいられない。それほど学生を図書館に呼び込みたいのか、と。もっと孤高に構えるものだと思っていたのだけれども…
っつーか100選の中に村上龍があって池波正太郎が無かったのは大学の陰謀でしょうか?