まさきとしかさんの「玉瀬家、休業中」(講談社)

 

  澪子の「反面教師」は、がさつで大ざっぱ、その日の風まかせで無計画に生きてきた母、和子。小学校高学年のときに「壊れかけ」不登校をつづけた揚げ句、学歴どころか最低限の生活力もないのに当てもなく上京、音信不通になった兄、ノーリー。そして、派手で見えっ張り、上昇志向が強いだけで、やはり上京、数度の結婚と離婚を繰り返しても懲りない姉、香波。要するに、女をつくって出ていった父以外の家族全員でした。

  特に母を受容できない澪子は、ティーンの頃には自分の人生の「予定」をたてていました。25歳で結婚、27歳で第1子出産、30歳で第2子を生むのとほぼ同時に一戸建てのマイホームを持つ。

  ところが、41歳になり、夫に出て行かれる形で離婚、北海道の小さな町のおんぼろアパートに1人ぐらし、半引きこもり。貯金も底をつき、手持ちの現金も4ケタを切っています。そんなある夜、コンビニの前で澪子は元夫を目撃。彼は明らかに恋人である女を連れ、澪子と結婚していたころより、はるかに生き生きし、幸せそうではありませんか。

  打ちひしがれるような気分で入浴もせず、引きこもっているところに、姉の香波の来襲。東京でイラストレーターとして生計を立てていたはずの香波は、いきなり300万貸してくれと言いだすではないですか。澪子が離婚したといっても、なかなか信じない香波。が、現実を認識するや、すべてを察したらしく「このままでは、あんたはダメになる」と言い放ち、澪子の荷物をまとめ、不動産屋にアパートの解約に行き、澪子を札幌の実家に連れて帰ります。母が苦手だとはいえ、このままでは貧困死することをさとらされた澪子は、しぶしぶ、実家に居候することに決めます。なし崩しに、自分も居座る香波。帰郷したその夜、家に忍び込んだ男をタコ殴りにした澪子と香波。ところが、相手の男は、東京で野垂れ死んでいたとばかり思っていたノーリーだったのでした。澪子は、この生活力も経済力もない兄が、母からの仕送りで東京でニートをしていたと思い込み、内心、兄への軽蔑を深めます。今は、黄昏時に出かけては、深夜、というより早朝に帰ってくるノーリー。どこで遊んでいるのか、考えるだけでもいやになる澪子。

  その一方で、少し自由に使える現金が欲しくなった澪子。働こうかなと思うものの、結婚していたときにパートに応募してはことごとく不採用だったことを思い出すのがイヤ。すると、札幌の街外れの洋食屋でディナータイムのバイト募集のチラシが、洋食屋の外壁に貼られているのを目にします。短大卒業後、ファミレスでウェイトレスのバイトをした経験が武器になるはずと考え、バイトを始めた澪子ですが・・・・・仕事の流れをつかむまでは、と皿洗いが中心の毎日。皿洗いをすませて乾燥機で食器を乾かしたのち、オーナーシェフから洗い残しがあると注意されると、「ランチタイムのバイトのミスかもしれないのに」と不満が溜まる一方。

  だれも幸せにしてくれなかった40年もの過去。未来は澪子の望んでいるようなものになってくれるのか・・・・・・・いや、そもそも、澪子は何を望んでいるのか。

 

 

  まさきとしかさんには珍しい「コミカル」で「爽快な」作品、と感じた人も多いようですが、いえいえ、一枚、表皮を向けば、いつもどおりダークで毒を湛えた作品です。あえて、違う点をあげれば、まさきさんの作品にミステリアスな印影を付加させてきた「ミステリー要素」が薄いこと。

 

  なぜダークで毒なのかというと、ヒロイン澪子が「自分の中に毒を溜め込む」女だから。

  序盤で、不当に夫に去られて、孤独なひとり暮らし、コンビニの店員にさえ辛く当たられる「薄幸な女」感を醸し出す澪子。ただ、視点が3人称ではなく、澪子による1人称の語りだという点に、要注意。”リチャード・ハルの「おば殺人事件」的な”バイアスが、かかりまくりです。

  10ページも読めば、多くの読者は、澪子の「幸福にしてもらえなかった私語り」に気づくと思います。しかし、澪子がどんな女であっても「社会的弱者」であるということは、確固たる事実なので、読む側としては「そんな弱者をヘイトしてしまう自分」に、罪悪感を感じてしまう。このあたりのテクニックは、まさきとしかさんの真骨頂といってもよいでしょう。たとえば、同じまさきさんの「きわこのこと」では、きわことはどんな女なのか、結局、目眩ましが解けないのですが、澪子は早々に澪子自身も気づかない本性がバレバレ、でも最後まで読ませてしまいます。

 

  離婚して引きこもる澪子への忠告、そんな生活を続けていたらウツ病になって、最悪、自殺の危険もある、と言う言葉に対して澪子が言い返したいのは、「いっそ、ウツ病になって死んだほうがいい」的なひとこと。「ウツになりたい」と望むとは、実際にウツで苦しんでいる人たちに失礼です(その意味で、今、気分を害された方、申し訳ないです)。澪子は、おとなしく、内向的で消極的な女であり、じぶんでもそう認識しているので、自分が「無神経」であるという真実に毛ほども気づかないんですね。その意味で鈍感なのに、「自分に対する他人の無神経な言動」には敏感、というより過敏な澪子。しかも「傷つけられて嫌な思いをさせられたこと」しか、覚えていない。

  澪子に忠告したのは香波。というと、香波もひどい女かと誤解してしまうと思います。しかし、彼女はカミングアウトせざるを得ない状況に追い込まれるまで、まわりには黙ったまま、ひとりで重荷を背負っていた女。実は東京でイラストレーターとして働くうちに重度のパニック障害を発症、療養のために全財産を使い果たし、身一つ北海道に帰ってきたという極限状態だったのです。だから「ウツ病になって」とは、口にだすのも苦しいひとことだったはず。私も初めて知ったのですが、パニック障害が劇症化すると、命にかかわる発作を起こす、とのことで、「死」が間近にあった香波が「自殺」という言葉を口にするのは、痛みを伴うはず。しかし、澪子は「他人のこと」なので、たいしたことだと思わない。「香波さんは障害が治れば、すぐにお金が稼げるじゃない」と香波本人に向かって言い放ち、なお自分の無神経さに気づいていない。快方に向かったものの寛解なんて見えてこない状態の香波。北海道に帰ってからも、香波は、「呼吸が止まるかもしれない」発作に怯えながら最低限の仕事は続けているんです。なぜかというと、「下宿させてくれる」母に、世間標準の家賃と、自分の使用分の水道光熱費を払うために。

  そればかりか。東京で暮らしていたノーリーは、母の仕送りに頼ってブラブラしていたのではなく、日雇いであっても仕事さえみつかれば働き、母、和子に月3万円は仕送りをしていたという事実。なぜ北海道に帰ってきたのか。ちゃんと理由があります。帰郷した現在でも、ノーリーは香波同様、母に家賃その他を払っています。どこに財源があるかというと・・・・・・これは、かなりびっくり。

 澪子は、母に1円も払っていません。あるのは、冷蔵庫にまともな食材を買い置きしていないことへの不満。

 

 「ぼくは楽しくてならないのだ」が人生に溢れているノーリー。

 50代の小金持ちの男が、72歳の和子を好きだということに納得できない澪子に対して、「好きだから好きなんでしょ。人を好きになるのに、ほかの理由なんて必要?」 と話す香波。香波が、過去の結婚を「好きだから結婚した」という、その意味が理解できない澪子。香波から「じゃあ、あんたは、なぜ結婚したの」と問い返されて、何も言葉を返せません。

  元夫と結婚中、「この人と結婚しなければ、ちがう人と結婚して幸せになれたのに」と思い続けていた澪子は、衣食住が保証されていても窮屈で余裕のない実家暮らしの中、「別居したとしても離婚さえしなければ、あのマンションで夫の稼ぎでくらしていけたのに」と後悔しきり。

 

  澪子は「自分にかけたバイアス」に、気づくのか。

 

 この作品は「いつもどおりミステリーだ!」と断言する人も多数。

 澪子の元夫が、誕生日のプレゼントを投げ返されたあの日まで、なぜ、さっさと離婚しなかったのか?という謎。

 謎です。

 

  いろいろな意味で、この作品は、「澪子さん」ではない人にこそ、読んで欲しいとも思います。

 

  「自分が他人を傷つける」ことを気にかけすぎる「あなた」へ、「悪いことは自分のせい、良いことは他人のおかげ」と思い込んでしまう「あなた」へ。

  この本を読んで「あなた」は澪子ではない、という真実に気づいていただけますように。

 

  そして、全国の和子さん、香波さん、そして愛すべきのーりー。あなたは、今のあなたで良い、あなたの隣にいる人は「幸せ」とまでいかなかったとしても、「楽に息ができている」と思います。特に、がさつな和子さん、知らないうちにあなたを囲んでいる友人たち、あなたに片思いをしている人に至るまで、気がつけば、みんな笑っている・・・・・・