チャールズ・パリサーの「五輪の薔薇」(ハヤカワ文庫)

 

  19世紀初頭のイギリス。

  田舎の静かな邸宅で母メアリーとひっそり暮らす聡明な少年ジョン。父親が誰なのか、彼は知らされていません。乳母や料理女などの使用人はいるものの、そんなに裕福ではないはず。しかし家には五輪の薔薇の紋章がついた立派な銀器類があります。

  ある日、メアリーとジョンが散歩していると、一台の豪華な馬車が、有料道路を走り去ります。その馬車には、見慣れた五輪の薔薇の紋章が。なぜ? ちいさな疑問が引っかかり、ジョンは母から「決して行ってはいけない」と言われていた荘園に忍び込み、ヘンリエッタという少女と出会います。彼女は何者? 母を問い詰めるジョン。メアリーは、かれら母子には、邪悪な敵がいること、それゆえ、隠れ住んでいかなければならないことを話します。しかし話の核心にせまるとそれ以上語ってはくれません。

 メアリーのもとに持ち込まれる「将来のための金策になるとても良いお話」。投機の話です。詐欺でした。世間知らずのメアリーは、たやすく見え透いた詐欺に乗ってしまうのでした。

 家もわずかな財産も失って、メアリーとジョンはロンドンへ向かいます。

 メアリーはある女を頼るために、その家の門をたたくのですが・・・・・・

 裏切りに次ぐ裏切りに翻弄されるジョンとメアリーの未来は? 母子をめぐる陰謀の全貌は?

 

 

  小林泰三さんの、脳みそを掻きまわすような「ゾンビミステリー」のせいで、脳みそがヒートアップ、単純な思考回路がショートしてしまったわたし。落ち着きを取り戻すために、むかし読んだイギリス・ゴシック・歴史ミステリーの再読に挑戦したのでした。昔読んだときは、上下2巻、2段組みの単行本でしたが、その後、全5巻の文庫として再販されていました。しかし、それも何年も前に絶版に。早川書房は、絶版本を出し過ぎ。講談社文庫にも言えることですが。 さして売れているとは思えないウィルキー・コリンズの「月長石」や、レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」を絶版にしない東京創元社の忍耐力を見習ってほしいです。

 しかも、文庫化された際に仕掛けられた大いなる罠。 章ごとに挿入されている家系図が、バリ、ネタバレの宝庫。家系図は、その章を読み終えるまでは「見ない」ことをおススメします。あと、注釈もネタバレ満載。当時のイギリスの社会事情に関して説明しているので、読みたくなるのですが・・・・・・たぶん、読まなくてもなんとかなります。

 

  ストーリーも真相も知っているので、特に気に入っていた箇所や、はらはらさせられたシーンを拾い読みという感じで読みましたが、それでも、長い、重い。ただ小野不由美さんの「屍鬼」のように途中巻までは退屈という感じはありません。すでに1巻から、転落と不幸の予感が、ひしひしと迫ってきます。

 ケイト・モートン(「忘れられた花園」をかいた作家さん)に作風が似ているという意見もありますが、むしろ、サラ・ウォーターズの「荊の城」から百合要素と冗長描写を無くし、より複雑にドラマチックにしたという感じでしょうか(「荊の城」は名作ですが、怖ろしく冗長なので、ドラマを見るのがおススメ)。ディケンズに近いという意見が一番納得いくかもしれませんが、もっと、がっつりエンタメ。やはり現代作家さんによる歴史ミステリー、長くて複雑ですが、文章は簡潔で読みやすいです。

 

 2巻からは、悲惨さのあまり挫折しそうになるのに、ついつい読み続けてしまうという麻薬的小説。

 すでに1巻から伏線という地雷の上を歩いているようなものなので・・・・・・そう、とてもじゃないけれど、伏線のすべてを見抜くなんて無理な話です。

  登場人物、誰が敵で、誰が味方か、まるっきり想像もつきません。3巻目くらいになると、取り巻くキャラ、すべてが怪しく思えてきます。しかも、ジョンの視点から見る限りでも、敵VS敵で争っているようす。

 5巻に入ったら、複雑な相関図を整理するため、家系図を見直すことをおススメします。

 

  母メアリーには、たぶんイライラさせられると思います。しかし、悲劇の女性なので暖かい目で見守ってあげてください。

  

  それにしても、20世紀末には、こんなリーダビリティの高い、高密度の大河ロマン的ミステリーが書かれていたという事実に驚嘆します。

  それから、まだ20年足らず。そんな短期間で海外ミステリー界は大変化、というか、大悪化。現在の英米ミステリーのほとんどすべてが警察小説。世界中で大ヒットし、ドラマ化までされた「フロスト」シリーズも純然たる警察小説です。ジェフリー・ディーヴァーの大人気シリーズ「リンカーン・ライム」シリーズも警察小説。しかも、後者はフーダニットではないシリアルキラーものが主流。ただ、安楽椅子探偵であるという点がユニークといえばユニークなのですが。英米ばかりでなく、スウェーデンの人気作家ヘニング・マンケルも警察小説の書き手です。欧米ミステリーの行く末はどうなってしまうのか、他国事ながら不安でいっぱいです。

 

  「五輪の薔薇」の素晴らしさは、19世紀初頭の「イギリス下流生活ガイド」としても楽しめるという点。

  あんな仕事、こんな仕事があったのかと興味津々。

  かといって、上流階級への言及が皆無というわけでもない。特に、上流階級の邸宅に勤める多くの使用人たちに関するあれこれは、興味深いです。使用人たちの間にある、さらなる身分差。上級の使用人は、自分に仕える最下級の使用人を持っています。主人に面会できるかどうかも、使用人としての身分しだい。それによって、服装まで変わってきます。きれいなお仕着せを着たハウスメイドとか、完全服装自由な家庭教師なんて、使用人たちのなかでは上流の極みなんですね。

 

 著者の作品で他に翻訳されているのは「大聖堂の悪霊」という邦題の、アメリカB級映画テイストを感じさせるミステリーのみ。しかし、あらすじを読む限り、それほどゲテモノではない、まともなミステリーのようなので、読んでみたいと思います。