アガサ・クリスティの「春にして君を離れ」(ハヤカワ文庫)

 

   イギリスの上流中産階級の夫人ジョーンは、結婚した末娘をバグダッドにたずねた帰途、中東で女学生時代の友人ブランチと再会します。女学校の女王だったブランチが駆け落ちや、作家志望の男との結婚などを繰り返し、すっかり零落して、美貌も若さもなくしているのを見せつけられます。

  次の宿泊所で列車を逃し、足止めをくらったジョーン。彼女はヴィクトリア朝の貴婦人の回顧録を読みながら次の列車を待つことにします。ブランチと比べて、自分はなんと幸運でリア充なのか。今でも愛し合っている夫ロドニーは成功した弁護士、3人の子どもたちは立派に成長。今回の末娘バーバラの病気は意外でしたが。きちんとした邸宅と、何人ものよくしつけられた使用人たち。

  もちろんロドニーと結婚してから危機はいくつかありましたが、ジョーンは機転を利かせ、且つ冷静にそれらの危機をのりこえてきました。今の彼女および家族の安定と幸福は、彼女の尽力のもとにあるのです。 

  と思っていた彼女でしたが、砂漠のただ中で、暇な時間を過ごすうちに、ついつい自分の過去について深くふりかえってしまいます。砂漠の穴から顔を出すトカゲのように些細な疑念が、ちらりちらりと顔を出します。自分が信じて来た「幸福」や、家族の「愛」は本当のものだったのか。暇な時間は、さらに彼女に「考えるように」追い詰めていくのですが・・・・・・

 

 

  アガサ・クリスティの名作ですが、ミステリーではありません。もともと「クリスティ」名義ではなく「ウェストマコット」名義で出版された一連の作品群のひとつです。

 

  ジョーンはおそらく40代半ば。それなのに、しわも白髪もなく、30代前半に見える若々しさ。専業主婦として夫ロドニーを支えるかたわら、地域の園芸協会の役員などもつとめ、地元貢献にも余念がありません。育児にも怠りなく、間違いのないようフォローしていきます。

 

  ところが、読んでいるうちに明らかになってくるのは、ロドニーを支えるのではなく、彼に強制しているということ。子どもたちをフォローするのではなく、縛り付けていること。序盤の発端になったバグダッドへの旅ですが、早婚のためバグダッドの金融家の妻となった末娘のバーバラ。バグダッドの社交界で、バーバラはよほどひどい家庭に育ったに違いない、家庭から逃れるために結婚したのだと噂されています。その噂をブランチから聞いたジョーンはその時は、笑い飛ばしますが、砂漠をさまよううちに、このエピソードは重くのしかかってくるのです。

  

  また、ロドニーとジョーンが家族ぐるみの付き合いをしていた銀行家のシャーストン。妻のレスリーは唐突に「もっと私の頭がよかったら、量子論とかについて考えられるのに」と夢見るように言いだすような女。その理由をきくと「だって、わくわくしません?」というのが答え。とてもジョーンには理解ができません。もっと理解できないのは夫が逮捕、投獄され破産したとき、レスリーが夫と別れず、子どもたちを抱えて負債を返しながら、夫の出所を待つ道を選んだこと。ロドニーはそんなレスリーを「勇気がある」と称賛しますが、前科持ちの夫と別れないなんてジョーンには子どもたちのためにならないとしか思えません。ジョーンには理解できないのです。レスリーが心底、夫を愛しているのだということを。

 

  ついに、ジョーンは自分の母のことを思い出します。だらしなくて、しかし、何とも言えない魅力があり、いかめしい軍人の夫から深く愛されていた母。ロドニーは同じくらい、ジョーンのことを愛しているのか。いや、もしかして、ロドニーの心はもうジョーンにはないのだとしたら・・・・・・?

 

  タイトルの「春にして君を離れ」はシェイクスピアのソネットの一節です。美しい春なのに、ともに楽しみたくても、あなたはもういない・・・・・・

  ロドニーがふとつぶやいたこのソネットは誰に捧げられたものなのか。

 

  旅の終わりの方に仕掛けられた些細な、しかし意地悪なトラップ。ジョーンは切り抜けられるのか。

  

  毒親に育てられた人、自分はアダルトチルドレンだと思う人には、絶対におススメしたい一冊。読むのは若ければ若いほど良いです。といっても高校以上ではないと理解できないでしょう。私が読んだのは大学1年の時。しみじみ思ったのは、結婚前にこの本を読めたのは人生の僥倖だったということ。

  今、山のように出回っている毒親小説が、浅く上っ面のものにみえてくるほど内容の深い本です。しかし、そこはクリスティ。抜群のストーリーテリングで少しも退屈しませんので、ご安心ください。

 

  ちなみに、クリスティの一番の名作は?とたずねられて、この作品をあげる人は驚くほど多いです。それも、「この本を読む前には『そして誰もいなくなった』が一番だと思っていたが」というケースはひたすら多い。

 

  とてもとても怖い本であることは確かなので、気持ちの安定している時にお読みください。