心の中のふるさと 天草島 (荒木忠夫)

--先日、会社で歯の定期健診があった。
その折り、医者は私の歯をほめてくれた。
「三十八歳の年齢で虫歯が1本もないのだから、たいしたものだ」というのである。
 医者は私に「生まれはどこですか?」と聞く。「九州、熊本県の天草島で生れそだった」と答えた。
医者は「やっぱり島そだちの方ですか」とうなずいていた。
 その夜、床についた私は、歯が丈夫にならざるを得なかった少年時代の頃のことを想い出していた。

 当時、天草島はどこの家も貧しかった。米のごはんを食べるのは盆と正月と村祭りのときだけ。
いつもはサツマイモか麦。もちろんお菓子やアメなんか、ほとんど食べたことはない。鰯だけは豊富だった。畑の肥料にするほどだった。私たちは、おなかがすくといつも鰯をまるごと食べて空腹を満たしていた。そんな食生活なので島の人はみんな歯が丈夫だったのだと思う。

 私の家は零細の農家で八人兄弟。姉も兄も中学卒業と同時に島から出て行った。口減らしのためだ。私が中学校へ行くころになっても私の家は依然として貧しかった…。

………(中略)………
 私が中学一年生のとき春の遠足があった。たぶん私は、この遠足の思い出だけは一生わすれることはないだろう。
 遠足の楽しみは何といっても弁当だった。どこのウチでも遠足の弁当だけはふんぱつしていた。私のウチでも米のごはんのおにぎりとタマゴ焼きをいつも母が持たせてくれた。その弁当を友達とワイワイさわぎながら食べるのが最高に楽しかった。
 遠足の前夜はワクワクして、よく眠れない。こんどもそうだった。
 待ちに待った遠足の朝、母が悲しそうな顔をして私に弁当を手渡す。弁当の中身はサツマイモだけだと告げる。蚊のなくほどかすかな声で「かんべんして」といっていたようだ。母は目に涙をふくませながら私の手を強くにぎって離さない。母の手はブルブルとふるえている。
 私は大声で母をののしり、母の手をおもいっきり振りはらった。その反動で母はよろけた。でも私は母にかまわず泣きながら走った。しばらく走ったところで後をふり返ってみた。母は地面に泣き伏していた。
 遠足の弁当の時間、私は天神山の山頂の藪の中にいた。クラスのみんなが私を探している。その声を遠くに聞き、私は藪にひそんでいた。空腹には勝てず私は泣きながらイモをかじった。自分の涙でイモがびしょぬれになっているのがなさけなかった。
 家に帰ってからも私は母をののしり責めた。母がどれほどつらい思いをしているかなど中学一年生の私には理解できなかったのだ…。
………(中略)………
 私が中学三年生になり、高校進学を間近にひかえた頃、担任の先生の勧めもあり、私は島の高校ではなく、熊本市内のK高校を目ざしていた。そのため必死になって勉強もしてきた。
 十二月のある日、父と母は私をいろり端に坐らせ「熊本の高校はあきらめてくれ」と告げた。「おまえを熊本に下宿させる費用がない。島の高校ならなんとかなる。島の高校でがまんしてくれ」と両親は私に頼みこむ。
 私は父と母を大声で罵倒した。それ以来、私は家族の誰とも口をきかなくなった。あんなに熱を入れていた勉強もほっぽり出した。重くるしい毎日が続いた。そして歳が明けて元旦となった。
 島を離れ、社会人として働いている姉と兄が帰省してきた。毎年、家族全員で行なっている初もうでにも私は参加しなかった。元旦の朝からふとんをかぶって寝ていた…。
 目をさますと、まくらもとに年賀状が置いてある。十枚足らずのようだったが、大した感情もなく私は一枚ずつめくっていた。どれもこれもクラスの友人からのもので「ことしもガンバロウ」という内容だった。
 いちばん下にあった年賀ハガキを見て私はドキンとした。鉛筆を、なめなめ書いたらしい。字が、ところどころ濃くなっている。差出人の名はなかった。でも私には、それが誰であるかはすぐにわかった。同じ家に住む母からのものだった。ハガキにはこう書いてあった。
 「おまえに“明けましておめでとう”と言うのはつらい。でも母さんは、おまえが元旦の日に家族の前で笑ながら“おめでとう”といってくれている夢を何度も見たよ。
 おまえがまだ小さい頃、おまえが泣き出すと、母さんは子守歌を歌っておまえを泣きやました。でもいまはもうおまえに歌ってやれる子守歌がない。どうしたらいいのかわからない。母さんはほんとうに困ってるよ。こんどはおまえの方から母さんに“親守歌”を歌ってほしいよ。
 ハガキを読み終えた十四歳の私は、元旦の寝床の中で大声をあげて泣いた。中学三年生の反抗期の私に向けて母が歌ってくれた“心の子守歌”だったのだ。
 このとき、はじめて私は親の気持がわかった。私は、とび起きてふとんをキチンとたたんだ。申しわけない。ほんとうに申しわけないという気持でいっぱいになった。
 初もうでから帰ってきた両親を私は正座で迎えた。「どうか島の高校へ進学させてください」と、両手をついて頼んだ。こうして私は島の高校へ入学した。
 島の高校ヘ入ってからは、がんばってがんばりぬいた。おかげで、奨学金で大学へ行ける資格を得た。このとき、父は命の次に大事にしていた山の種松を売った。私の入学金をつくるためだった…。
………(中略)………
 あれから二十年ほどの歳月が流れた。私は結婚をして子どももできた。両親は島で元気にくらしているようだがしばらく会っていない。
 ある晩、中学三年生になる我が家の長男がつむじを曲げた。ささいなことが原因だ。長男は「お父さんもお母さんもボクのことわかってくれないんだ!」と大声で私たちをののしり、自分の部屋へこもってわんわん泣きだした。
 私は自分の少年時代を思いだした。こうして何回となく親にくってかかったものだ。
 そういえば、あんなにめんどうをかけた親にろくに親孝行をしていない。「子をもって親の恩を知る」という諺があるが、いまの私はその心境である。
 そんな折り、NHKテレビで作文募集のニュースを見た。そうだ、両親のことを書こう。
もし入選したら放映される。全国ネットだから天草島にいる両親にも見てもらえる。そんな思いで作文コンクールに応募した--。

 

★私は昨年、母を亡くしました。私も全く親孝行が出来ていませんでした。